山内一豊は特筆すべき特徴のある武士ではなかった。日常生活は律儀でつましい。偏った思想信条もなく、愚直なほどまじめに仕事に精を出し、適当に要領もよくという、現代でいえばちょっと気の利いた中間管理職というところだろうか。
そんな男が織田信長を振り出しに、秀吉・家康と天下人にたくみに仕えわけて、30年後には土佐20万石の太守にまで上り詰めた。
どうして・・・どんなやりかたで?
巷間伝わるのは、「糟糠の妻」の内助の功によるというのだが・・・。
一豊の妻千代(幼名まつ)は一豊の母・法秀院(出家名)が見定めた。12歳の年の差があったが、千代は聡明な嫁だった。また同じような境遇に育ったことから価値観も共有でき、夫婦は仲がよかった。
一豊の妻の名前を一躍世に知らしめたのは馬にまつわる逸話であり、この話は戦前の教科書に乗っていたようで、幼児、わが爺さんの寝物語(語りがうまかった)として聞かされたので記憶にとどめている
一豊が信長に仕えて間もなくの頃、安土城下に一頭の駿馬が売りに出された。「無双の俊足だが値段が高すぎて手が出ない!」と一豊は妻の前で愚痴る。
「その馬はいかほどですか?」と千代。
「黄金10両!」
「その馬求めたまえ。その料金を支払いましょう!」と即答する千代。
貧乏所帯にもかかわらず、なんと鏡箱の底から黄金10両を取り出して、一豊に差し出した。
「この黄金は嫁ぐとき、父が、まさかのとき、婿殿の一大事のときにこそ用立てよと申されて、わたしにもたせてくれたもの。あなたさまには、その名馬に乗って信長公に見参してほしい!」
結果、都で催された馬揃えで、駿馬に乗った一豊は信長の目にとまり、その後の一豊の出世に一役も二役もかったという話である。
この話にはつじつまの合わないところも多く、真偽のほどはわからない。時の為政者が世の中を丸く治めるために美談に仕立て上げたというのが本筋ではないかと思う。
しかし、現代のしがないサラリーマンからすれば理想の賢婦人で、「いまは望んでもこんなのはいないよ!」と悔しいのだが、たしかにこの千代なる女性、冷静沈着で、夫の心を読み、阿吽の呼吸で夫と競演できる才覚の持主であったようだ。そんな千代を信頼した一豊も、夫婦愛を貫いて生涯側室を置かなかった。
もう一つ一豊に関する逸話がある。
関が原合戦に先立つこと3ヶ月、群馬県の小山会議(上杉景勝討伐)の席上であった。
家康の陽動作戦に乗った石田三成は慶長5年(1600)7月、京都で兵を挙げた。家康は、上杉討伐に小山まで同行してきた豊臣恩顧の武将たちを集めて、軍議を開いた。その席上、一豊はことの成り行きを左右する重要な発言をした。
「居城の掛川城も兵糧も、ことごとく内府(家康)殿に差し出す。家臣もすべて引き連れて戦場に臨みます!」
この発言が会議の流れを決め、関が原で家康が勝利を得る遠因になったともいわれている。
家康にしてみれば内心不安もあった中で、(おべんちゃらかもしれないが)一豊の発言の価値は大きかった。
さらにもう一つ、妻の逸話。
上記石田三成の挙兵は豊臣恩顧の諸将に対し妻の人質を要求した。細川ガラシアがこれを拒み、家老に薙刀で突かせて自決した逸話が有名だ。
ガラシアは身をもって忠義を全うしたが、千代は屋敷が追っ手に囲まれる中で、夫のもとに密書を送った。「自分の身はどうなってもよいから、家康殿に忠誠を尽くして欲しい。何かあればわたしは自害して果てる所存!」という書状を文箱に収め、使者・田中孫作に託した。しかも孫作のかぶる笠の緒に「文箱は開けないでそのまま徳川様に渡すべしと!」と、これこそしたたかと思われる密書を織り込んだ。
その書状は、掛川城(あるいは小山?)に宿泊していた一豊に届けられ、千代の思惑通り家康の前で開封されたという。
これは偶然ではなく、意図的に仕組まれたことと思うが、平常時ではなく、関が原直前の緊張感がただよう、ぎりぎりの局面である。妻として夫を持ち上げるための、まさに命懸けの真剣勝負であったことは疑うべくもない。
戦いが徳川方の圧勝で終った後の論功行賞において、なんの武勲も立てなかった一豊が“土佐20万石”の太守に大抜擢された。周囲はいぶかしく思ったが家康にすれば何の不思議もなかった。それだけ訴えるものがあったのである。
<完>
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山内一豊と妻・千代 掛川城で想う
功名が辻−3