2006年NHK大河ドラマ「功名が辻」が始まりました。
司馬遼太郎が書いた「功名が辻」を原作に、「励ますこと」に特別の才能をもった山内一豊の妻・千代と、「愚直」という真心ひとつで戦国の世を駆け抜けた夫・一豊の、愛と知恵の歴史がこの1年間展開されます。
1月某日、わたしは遠州掛川に所用があったのを機会に、一豊が築き10年の治世を行ったという出世城・掛川城を一足早く訪問してみました。
展示館の建造を急いでいましたが、ドラマのおかげで普段は静かなこの地方都市に脚光が当たり、にわかに騒々しくなりそうな気配です。
いい機会を得ましたので山内一豊を調べ、その生きざまと掛川のことなどご紹介しようと思います。今年もう一つ、一豊終焉の地・土佐の高知に出かけるチャンスがあればと、願っています・・・。
秀吉とおね(北政所)、前田利家とまつ(芳春院)、山内一豊と千代(見性院)。ともに戦国時代に二人三脚で成功した夫婦である。いずれの婦人も賢妻の誉れが高く、内助の功によって夫を支えたといわれてきた。
秀吉とおねはよく喧嘩をする。秀吉は英雄色を好み、浮気を繰り返したが、おねは我慢せずにいいたいことを直接にいってストレスを発散していた。二人とも心のうちを包み隠さず相手にぶつけることによって仲を保っていた。
利家とまつは古風な夫婦関係を保ち、まつは陰で夫を支えた。まつの賢明さは利家亡き後に発揮される。家康が前田家に謀反の兆しありとして圧力をかけてきたとき、まつは自ら人質を買って出た。10数年を江戸城で過ごすことになったが、その結果一族の結束もあって、徳川300年、安寧のうちに大藩100万石を護りきった。
一豊と千代はもっとも対等でもっとも仲のいい夫婦だったのではないだろうか。書き物の上では“励まし上手”の千代の賢さばかりが目立つが、一段高いところから一豊がそれをコントロールしていたというのが実際ではなかったか。一つ間違えば明日は打ち首か流浪の旅という時代、すべてが真剣勝負であった。千代も真剣に考え真剣に夫にもの申した。あるいはこの二人、平常時も想定問答集を手元において、ブレーンストーミングでもしていたのではないだろうか。
信長の短気をどう乗り越えたらいいか、秀吉のわがままへの対応はいかに、家康の弱点は何処にあるのか、二人で目前の困難に立ち向かっていくうちに強い同志的連帯感が生まれ、大きなパワーが生まれた。
現代のビジネス社会でも、もって見習うべきである。
市内で目立つ幟(のぼり)
観光対策のあの手この手が着々と進行しつつある
町並みも”城下町・掛川”のイメージに沿って整備されつつある
<続く> 「功名が辻ー2」へ
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山内一豊と妻・千代 掛川城で想う
功名が辻−1
東海道線掛川駅前と
二宮金次郎(尊徳)像
車窓からの冬田は枯れ野の雰囲気だが、
温かい陽射が落ちていた
山内一豊という武士、戦国時代を派手な軍功を挙げることもなく、卓越した戦略を考えたわけでもなく、すこぶる地味で平凡などこにでもいる男であった。
ただし、この男にはひとつの取り柄があった。 生涯を通じて誰かを恨んだり憎んだりという形跡がない。人の悪口を言わない、自分の手柄を誇ったりしない、ということから人心掌握術に優れていた。
他人のために汗をかき、頼まれたら嫌とはいえない。同僚からも信頼され、邪険にされることはまずなかった。
物言いが穏やかで、性格も温和、情に細やかな人だったといわれている。だが、それは晩年を迎えた成熟期の評価であって、若い頃は違っていただろう。
一豊という人間は、その時代を生きた武家の躾から、またその経験が教えたノウハウとして、韜晦(本心を隠すこと)して感情を現さないことに巧みであったのではなかろうか。
(ここまで書いてわたしは本多宗一郎の盟友・藤沢武夫のことを考えていた・・・)