新撰組と壬生


 2004年のNHK大河ドラマは「新撰組」である。

 幕末期、幕藩体制が弱体化し京都の町の治安は悪化。そんな背景のもと自ら志願して動乱の中に飛び込んでいった20歳代の武蔵野の若者たちは、意気揚々と板橋から中山道を出発した・・・・・。

 かれらも攘夷の志士だから、国を出るときにもう帰ってこないという死の覚悟ができていた。だから強かった。縦横無尽の活躍をした。

 そのドラマを一足先に展開してしまおうと、壬生を訪ねた。

<幕末の壬生>

現在の壬生の町並みと屯所餅 幕末の壬生は京都市街の西のはずれで、その先は田圃(たんぼ)ばかりが広がり、その中に島原遊郭が夜の明かりを際立たせていた。

 これはどこかで出会った光景に似ている?・・・・・そうだ、江戸時代に、浅草は浅草寺・奥山の境内から北東の方角「吉原遊郭」を見下ろした光景である。おまけに周辺にはおびただしい寺社の数々というのも似ている。

 考えてみれば、田圃と遊郭と寺社との関係は興味深いが、市街地開発という観点から見れば当然の帰結。江戸幕府は意図的に町のはずれに隔離された遊郭を設け、市井の遊び人を誘った。人の集まる江戸時代の城下町にはほとんど、大小を問わず町外れに遊郭が設けられた。

 より道をしてしまったが、話は遊郭のことではではなく、壬生と新撰組のこと。

<武州武者>

 武州多摩在は源平以前から、あらぶる坂東武者を数多く輩出した郷で、剣道が盛んである。

壬生寺の近藤勇像 幕末にこの地に天然理心流という一派が栄えた。その弟子の一人に宮川勝太という少年がいた。剣術の筋のよいのを見込まれて道場主・近藤周助の養子となり、名を勇(いさみ)と改めた。近藤勇の誕生である。
 土方歳三、沖田総司ら新撰組の名だたる志士は近藤勇の弟弟子たちである。

 NHKで特集していたが天然理心流の極意は「肉を切らせて骨を切れ、骨を切らせて命を断て」これがその教え。実にすさまじい。

 幕末をふり返ると、徳川が滅んでいく過程で、最後まで支えたのは代々の旗本御家人ではなく、一面、武州三多摩をはじめとした田舎の農民であったというところがおもしろい。近藤は調布、土方は日野と・・・。
 近藤の生家は今のわたしの住まいと至近距離にあるが、かつてこの地は天領であった。そのことをかれらがどれだけ認識していたか知るよしもないが、辺境にこそ愛国心が存在した。お膝元の都会人的御家人は諸芸百般には通じても、最後の忠誠心は発揮できなかった。

 なにか追い込まれた会社の社員意識に似ているなあ。本社の中枢で頭を働かせる上級社員はプレゼンテーション能力は高いが、実際の行動になるとからっきし駄目で、実践下手。追い込まれると逃げ去ってしまう。その点、地方社員は忠誠心と実践能力に長けていて、いざというときに底力を発揮する。

 もっとも近藤たちが江戸を出発するときに世事と自分たちの立場をどれだけ理解していたか、むしろ時間の経過とともに意思を固めていったと見たほうが妥当ではなかろうか。

<幕末の京都>

 幕末の京都はさまざまな価値観が錯綜する無頼の都であった。幕府の統率能力が落ち、海外列強はその隙を突いて日本というおいしい果実を奪取しようと虎視眈々と牙を研いでいた。そんな背景の中で佐幕派と尊皇派が攘夷をめぐって、すさまじい権力争い(内乱)をくりひろげていた。

<新撰組の誕生>

 文久3年(1863年)2月4日、清河八郎の画策により幕府は江戸浪士を、将軍家茂(いえもち)上洛の警備隊の目的で、小石川伝通院に集めた。
 この計画は文字通りにとらえるより、江戸にいて悪事を働く無頼の浪人たちを一まとめにして危険な京都に送ってしまおうという一石二鳥の幕府の策略と捉えたほうがよさそうだ。
 浪人たちにとっても、その日暮の生活から脱却し、食べるだけのものをもらえるというメリットがあった。

 2月8日、板橋から中山道を京都に向かって出発。鵜殿甚左衛門が隊長、7隊編成、総員234名だが、その中に後に新撰組の中核となる近藤・土方らが含まれていた。

壬生郷士八木邸 2月23日、洛外壬生に分宿。八木源之丞宅に宿泊し、結果的に以後2年間の長逗留となるのだが、直後の3月12日、清河は「浪士隊を江戸に戻す」決定をした。
 近藤以下の試衛館一門(近藤勇・土方歳三・永倉新八・原田左之助・山南敬助・沖田総司・藤堂平助・斉藤一・井上源三郎)9名、および芹沢鴨一派4名の合計13名はこれに反発、かれらは京都に残ることになる。

 翌3月13日、京都守護職・松平容保に直訴し、その裁量により、その庇護を受け、会津藩預かりによる新撰組が誕生した。

 新撰組の物語はこれからわずか5年という短かくもはかなき若き志士たちの物語である。

<池田屋騒動>

 厳しい掟の発布、内部抗争や粛清など波乱万丈の展開を見せるのだが、なんといっても新撰組を歴史に浮かび上がらせたのは池田屋騒動。

 翌・元治元年(1864年)6月5日未明、
沖田の一番隊、永倉の二番隊、原田の三番隊の出動により桝屋を襲撃、桝屋喜右衛門(古高俊太郎)を逮捕。壬生の新撰組屯所・前川邸で、拷問により長州攘夷派の京都騒乱の極秘計画と池田屋集結情報を入手。

三条小橋 その夜、近藤・沖田・藤堂・近藤周平・山崎丞の5名(10名説もあり)は、京都守護職・所司代に了解を取り、三条小橋脇の旅籠池田屋を襲った。相手は総勢30名、その後土方らも加勢、乱戦となった。
 結果、長州の吉田稔麿・杉山松助、土佐の石川潤次郎・望月亀弥太、肥後の宮部鼎蔵ら多くの有為の志士が亡くなった。

池田屋主人・惣兵衛も逮捕7月13日獄死。


 池田屋に切り込んだ近藤らは、藤堂平助が頭を割られ、沖田総司が昏倒するも、会合に参加していた浪士を気迫で切り、捕らえ、その後現場に到着した別動隊の土方らとともに新選組の名を一躍有名にしたのである。

 後世の歴史家はこのため明治維新は1年遅れたと指摘しているが。

<壬生屯所>

 2004年1月3日早朝、わたしたちは四条大宮で阪急を降り、壬生寺に向かって歩いていた。四条通りを左折し京福電鉄の踏切を超えると間もなく壬生の町並みが見える。

御菓子司京都鶴屋 壬生寺の手前右手に新撰組結成時の屯所・八木邸があった。
 八木邸の前には、京菓子処鶴壽庵「鶴屋」が店を出し「屯所餅」を商っている。たしか屋敷を公開している八木家の末裔の方がやっていらっしゃるようだが、商売熱心でけっこう・・・。

新撰組屯所跡 店のすぐ横に「新選組屯所遺跡」と書かれた石碑があり、その隣に「壬生名水鶴寿井」の看板が出ていた。
 もともと「壬」の字は「みずのえ」と読み、「水」に関係することばで、「壬生」は水が滾々と湧き出る場所の意味がある。いわゆる湿地帯で、そのため都市化が遅れ明治になっても田園地帯を脱しなかった。壬生菜というのもその名残か。

 さて当然ながら新撰組隊士もこの名水を汲んだことだろう。

 話は寄り道したが、その行動において評判の悪かった芹沢鴨を粛清したのはこの八木邸で、そのときの刀傷の後が屋敷内に残る。

 道路を挟んで八木邸の斜め向かいにもう一つの屯所・旧前川邸があった。黒塗りの板塀に囲まれ、現在は製袋業を営む田野家が保存の努力をされている。公開されていないが、前述の古高俊太郎を拷問した蔵や近藤の養子・周平が「会津新撰組」と書いた板戸が残されている。

<新撰組その後・・・>

 新撰組活動の概略は以下になるが、その刃は鋭く、尊皇派からは壬生浪と恐れられた。

元治元年
(1864)
蛤御門の変
(禁門の変)
7月18・19日、長州来島軍は御所・蛤御門から侵入。会津との戦闘が始まり、最初優位な長州軍だったが、西郷・薩摩の鉄砲隊により惨敗。来島・久坂・入江九一・真木和泉らは戦死。また火災が発生、消失家屋2万8千戸。
報奨 8月4日、幕府より池田屋襲撃に対する賞金の授与。近藤30両、土方23両、沖田・永倉・藤堂らは20両、合計31名。
8月15日には禁門の変に対する感謝状と金品の授与。
元治2年
(1865)
山南敬助脱走 1月22日、総長山南は人斬り集団に嫌気がさし、自己矛盾との葛藤の末に脱走。大津から、沖田総司に連れ戻されるが、その沖田の介錯により切腹。享年32歳。
その後内部粛清の嵐が吹き荒れる。
慶応元年
(1865)
幕軍第2次長州征伐 5月12日、幕府長州に藩主送還を布告。
5月25日将軍家茂大阪着陣。
6月7日大島郡にて戦火。
9月21日、長州征伐の勅許。
11月16日、大目付・永井主水正、広島国泰寺にて長州藩使者・宍戸備後介と会見、近藤・伊藤・武田・緒形ら新撰組同行。
調停は不調に終わり全面戦争に突入。。
慶応2年
(1866)
伏見池田屋襲撃 1月、新撰組沖田総司・斉藤一、見廻組と伏見「寺田屋」を襲撃。坂本龍馬・三吉慎蔵、寺田屋の女中お竜(後養女で龍馬と結婚)らは薩摩屋敷に逃げる。
慶応3年
(1867)
伊東脱退のち粛清 3月20日、伊東甲子太郎、弟の鈴木三樹三郎・篠原泰之進・新井忠雄ら伊東派のほかに、子飼いの藤堂平助・斉藤一も同調し脱退。五条大橋脇の長円寺に。
11月18日、伊東甲子太郎、近藤の接待を受けたあと法華寺近辺・木津屋橋油小路で新撰組の刺客に惨殺。藤堂も惨死29歳。
慶応4年
(1868)
鳥羽・伏見の戦 1月3日、薩長土3藩連合軍は5千の兵で迎撃の陣を敷く。
開戦の火ぶたは鳥羽口で切られた。薩摩の中村半次郎(桐野利秋)野津七左衛門と幕府大目付滝川播磨守との間の小競り合いから始まった。戦闘は4日間続いたが、幕府軍の完敗に終わる。
新撰組も伏見奉行所に立てこもるが、大砲を打ち込まれ京橋口まで退却。
1月4日さらに淀まで退きバタバタと倒れる。
朝廷は仁和寺宮嘉彰を征夷大将に任命、錦旗をかついだ。
甲陽鎮撫隊 3月5日、新撰組は勝海舟の命により甲府城の守備に向かうが、東山道軍参謀・板垣退助の前に敗退、八王子まで退く。
流山にて降伏近藤極刑にて死す 3月20日ごろ、下総流山に屯営を設け、近藤は大久保大和に変名し薩摩藩士有馬藤太に降伏。変名は伊東一味の生き残り加納道之助に見破られ、薩摩の糾問官・平田九十郎にかばわれながらも総督府の裁断は「斬罪梟首」の極刑。
4月25日、板橋刑場にて落首。35歳。
土方も函館にて戦死 原田左之助は上野彰義隊に加わり総攻撃で負傷、5月17日死す。27歳。
土方は会津で負け、出羽庄内でも破れ、函館戦争に参加するも5月11日戦死。
35歳。

沖田総司江戸表にて病死。

一部の生存者を除き、これにて新撰組物語の幕は閉じられた。

 幕末と新撰組についての詳細な年表はこちら(新撰組の時代と彼らが走った5年間 by Skipio)

<壬生寺>

壬生延命地蔵尊
 壬生寺は、正暦2年(992年)三井寺の快賢僧都が仏師・定朝に地蔵菩薩を彫らせ、本尊に据えたことに始まる。
 現在は境内に老人ホームや幼稚園が併設されているが、この広い庭を利用して新撰組のメンバーは武術の稽古に励んだようである。

 そして、右手に「壬生塚」と称した墓地がひっそりと佇んでいる。
 入口近くの大きな石に三橋美智也が歌った「ああ新撰組」の歌碑が刻まれ、正面には口を真一文字に結んだあの角ばった近藤勇の像がまっすぐ前を向いて立っていた。
 また別に芹沢鴨・平山五郎ら10人の隊士も並んで祀られていた。

 新撰組の物語は函館戦争の、(性質英才にしてあくまで剛直な)土方歳三の死をもって、5年間という短い「滅びの美学のストーリー」の幕を閉じた。

 時代は、明治維新という薩長土肥を忠臣とする新政府に取って代わり、会津・新撰組は逆賊の汚名を着せられ徹底的な弾圧を受けた。その子孫も長らく肩身の狭い思いをしたにちがいない。

 現在も新撰組に対する評価は二通りある。これは裏と表だから仕方ない。

 そういう評価は他に譲るとして、若い青年たちが、自己の命も顧みず、思想に忠実に前進する姿は美しい。それが危険だと指摘する考えもあるが、今の若者にそんながむしゃらなエネルギーがあるだろうか?何でもいいから目的を見つけ、がむしゃらに若いエネルギーを燃焼してもらいたいと切に願うのはわたしだけではないはずだ。

壬生寺

■ところ 京都市中京区坊城仏光寺北入る
■交 通 阪急京都線大宮駅より四条通り西へ徒歩6分、坊城通り南へ4分
■開 園 8時30分ー16時30分 年中無休
■入園料 無料(壬生塚100円)
■問い合わせ  電話075-841-3381
(2004年正月現在)

<この項 了>

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