年代 | 西暦 | 事件 | コメント |
安政5年 | 1858 | 安政の大獄 | 大老井伊直弼によっておこなわれた尊王攘夷派の志士に対する弾圧。橋本佐内
・吉田松陰・梅田雲濱ら50余人を獄門・死罪・遠島に処した。 |
万延元年 | 1860 | 桜田門外の変 | 3月3日朝、開国にふみきった幕府大老井伊直弼は攘夷(夷狄を攘ちはらえ)過激派の水戸浪士たちに暗殺される。 |
文久2年 | 1862 | 京都守護職 | 王城守護と京都の治安を守るために幕府が設置。会津藩主・松平容保に任命。1000人を引き連れて着任。 |
文久3年 | 1863 | 特別警備隊 | 2月4日、清河八郎の画策により幕府は江戸浪士を、将軍上洛の警備隊の目的で、小石川伝通院に集めた。 |
京都に出発 | 2月8日、板橋から中山道を京都に向かって出発。鵜殿甚左衛門が隊長、7隊編成、総員234名。 | ||
京都到着 | 2月23日、洛外壬生に分宿。八木源之丞宅に宿泊。(以後2年間の長逗留となる。) | ||
清河ら東下 | 3月12日、清河の「浪士隊を江戸に戻す」決定に、近藤以下の試衛館一門(近藤勇・土方歳三・永倉新八・原田左之助・山南敬助・沖田総司・藤堂平助・斉藤一・井上源三郎)9名、および芹沢鴨一派の合計13人が反発、京都に残った。 | ||
新撰組の誕生 | 3月13日、京都守護職・松平容保の庇護の下、会津藩預かりによる新撰組誕生。 | ||
清河惨殺 | 4月13日、清河八郎赤羽橋にて佐々木只三郎(後・見廻組)により惨殺。享年34歳。 | ||
見廻組の誕生 | 4月26日、旗本の次男・三男で編成。当初、新撰組とはトラブルが多かった。 | ||
長州の砲撃 | 5月10日、アメリカ商船を、23日フランス艦を、26日オランダ艦を下関海峡で砲撃。 | ||
8.18の政変 | 8月18日、天皇の勅命により、禁門の守りを担当していた長州藩は御所警備の任を解かれる。長州は三条実美ら尊皇攘夷派の公卿を伴い、断腸の思いで帰国。長州による薩賊会奸への恨み高揚。 | ||
芹沢鴨暗殺 | 9月18日深夜、土方・沖田・山南・原田らにより素行不良の芹沢は斬殺。これより局長・近藤勇、総長・山南敬助、副長・土方歳三のトロイカ体制がスタートする。 | ||
鴨の河原に千鳥が騒ぐ またも血の雨 涙雨 武士という名に命をかけて 新撰組は きょうも行く |
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元治元年 | 1864 | 桝屋襲撃 | 6月5日未明、沖田の一番隊、永倉の二番隊、原田の三番隊の出動により桝屋を襲撃、桝屋喜右衛門(古高俊太郎)を逮捕。拷問により長州攘夷派の京都騒乱の極秘計画と池田屋集結情報を入手。 |
池田屋騒動 | 6月5日夜、近藤・沖田・藤堂・近藤周平・山崎丞の5名は、京都守護職・所司代に了解を取り、三条小橋脇の旅籠池田屋を襲った。相手は総勢30名、その後土方らも加勢、乱戦となった。結果、長州の吉田稔麿・杉山松助、土佐の石川潤次郎・望月亀弥太、肥後の宮部鼎蔵ら多くの有為の志士が亡くなったが、このため明治維新は1年遅れたといわれている。 池田屋主人・惣兵衛も逮捕7月13日獄死。 |
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長州藩の京都包囲 | 6月24日、長州藩過激派・来島又兵衛、国老・国司信濃・福原越後、久留米の神官・真木和泉、慎重派の久坂玄瑞などが武装して京都を包囲布陣した。 | ||
新撰組布陣 | 厳しい陣中法度のもとに100人が銭取橋に布陣。 | ||
蛤御門の変 (禁門の変) |
7月18・19日、長州来島軍は御所・蛤御門から侵入。会津との戦闘が始まり、最初優位な長州軍だったが、西郷・薩摩の鉄砲隊により惨敗。来島・久坂・入江九一・真木和泉らは戦死。また火災が発生、消失家屋2万8千戸。 | ||
長州追討勅命 | 7月23日、孝明天皇による長州追討の勅命 | ||
報 奨 | 8月4日、幕府より池田屋襲撃に対する賞金の授与。金銅30両、土方23両、沖田・永倉・藤堂らは20両、合計31名。 8月15日には禁門の変に対する感謝状と金品の授与。 |
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長州討伐 | 8月、第一次長州討伐の出兵。中・四国・九州諸藩15万の兵が海陸より長州を包囲。 | ||
西郷・勝会談 | 9月11日、薩摩の西郷吉之助、幕府の勝海舟による会談。これにより西郷は倒幕志向に転向する。 | ||
近藤、江戸へ | 10月、将軍にもの申すため、及び隊士徴募のため駕籠にて江戸へ。老中・松前伊豆守と面談するが、財政逼迫と幕府の腐敗を感じ取る。一方、北辰一刀流・伊東甲子太郎に入隊を勧める。 | ||
伊藤、京都に | 12月1日、伊東甲子太郎入京。山南敬助の勧誘もあり、新撰組入隊。 | ||
幕軍長州撤兵 | 12月27日、撤兵。西郷起案の講和条件を長州は飲んだ。藩主の謝罪状、責任者の首級、五卿の筑前落ち、山口城の取り壊しなど甘い条件だった。 | ||
元治2年 | 1865 | 山南敬助脱走 | 1月22日、総長山南は人斬り集団に嫌気がさし、自己矛盾との葛藤の末に脱走。大津から、沖田総司に連れ戻されるが、その沖田の介錯により切腹。享年32歳。 その後内部粛清の嵐が吹き荒れる。 |
長州藩攘夷放棄。桂小五郎のもと、高杉晋作・伊藤博文などを中心に、また坂本龍馬の海援隊とも結託し、独自の富国強兵策に取り組む。 | |||
祇園の小料理屋 |
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慶応元年 | 1865 | 元号慶応に | 4月7日。 |
幕軍第2次長州征伐 | 5月12日、幕府長州に藩主送還を布告。 5月25日将軍家茂大阪着陣。 6月7日大島郡にて戦火。 9月21日、長州征伐の勅許。 11月16日、大目付・永井主水正、広島国泰寺にて長州藩使者・宍戸備後介と会見、近藤・伊藤・武田・緒形ら新撰組同行。 調停は不調に終わり全面戦争に突入。。 |
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慶応2年 | 1866 | 薩長密約 | 1月21日、土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で、西郷隆盛・桂小五郎会談による薩長六か条の密約が成り、連合による倒幕の核が形成された。 |
伏見池田屋襲撃 | 1月、新撰組沖田総司・斉藤一、見廻組と伏見「寺田屋」を襲撃。坂本龍馬・三吉慎蔵、寺田屋の女中お竜(後養女で龍馬と結婚)らは薩摩屋敷に逃げる。 | ||
制札の番 | この頃、長州の跳梁も落ち着き、新撰組の仕事は長州人密告の制札の番までやらされる。 | ||
徳川家茂逝去 | 7月20日、若年の将軍家茂心労の末逝去、21歳。家茂の妻は光明天皇の妹・皇女和宮。 7月27日、跡を継いだのは英明の誉れ高い、徳川斉昭の第7子・水戸藩一橋慶喜だが、この時点では徳川家のみを引き継いだ。 |
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勝停戦の密使 | 8月末、勝海舟安芸の宮島・大願寺にて、長州の広沢兵助・井上聞多(馨)と交渉をまとめる。しかしその間に慶喜が家茂の死を発表し、天皇から「長州は侵略地から撤兵せよ」の詔勅を出させた。長州は憤慨。 | ||
15代将軍誕生 | 12月5日、徳川慶喜将軍の座に着く。 | ||
光明天皇薨去 | 12月25日、時の帝光明天皇亡くなる。表向きは痘瘡で、公卿・岩倉具視による毒殺の風評が流れるが、真相は不明。 | ||
慶応3年 | 1867 | 伊東脱退 | 3月20日、伊東甲子太郎、弟の鈴木三樹三郎・篠原泰之進・新井忠雄ら伊東派のほかに、子飼いの藤堂平助・斉藤一も同調し脱退。五条大橋脇の長円寺に。 |
伊東薩摩への動き | 6月8日、高台寺内月真院に「禁裏御陵衛士屯所」の看板を掲示。 | ||
旗本に抜擢 | 6月10日、新撰組隊士全員が旗本に。近藤は大御番組頭取(米300俵に月給50両)に、幹部もそれぞれ大御番組に、隊員総数250名。 | ||
倒幕の蜜勅 | 10月13日、岩倉具視・大久保一蔵派は「慶喜を討て」の蜜勅を薩長両藩に渡す。薩長出兵5000。 | ||
大政奉還 | 10月14日、将軍徳川慶喜は京都にて「大政奉還」を宣言。 | ||
竜馬暗殺 | 11月15日坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺された。暗殺者不明。 | ||
伊東惨死 |
11月18日、伊東甲子太郎、近藤の接待を受けたあと法華寺近辺・木津屋橋油小路で新撰組の刺客に惨殺。藤堂も惨死29歳。 | ||
王政復古 | 12月9日朝廷長州の入京を許す。同時に土佐・薩摩ら5藩兵力が御所を囲み、会津・桑名の親幕府藩を閉め出す。 岩倉具視「王政復古、天皇親政政府の樹立」を宣言。 |
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新撰組伏見に | 12月11日、新撰組隊士66名伏見奉行所に布陣。 | ||
薩摩藩邸大砲事件 | 12月20日、江戸にて庄内藩兵が、フランス人指揮官のもとに大砲を三田薩摩藩邸に打ち込む。 | ||
風雲急 | 12月末、幕軍1万5千、総督松平豊前守・副総督塚原但馬守らは鳥羽街道、伏見街道から進軍。目的は薩摩を討つ。 | ||
慶応4年 | 1868 | 鳥羽・伏見の戦 | 1月3日、薩長土3藩連合軍は5千の兵で迎撃の陣を敷く。 開戦の火ぶたは鳥羽口で切られた。薩摩の中村半次郎(桐野利秋)野津七左衛門と幕府大目付滝川播磨守との間の小競り合いから始まった。戦闘は4日間続いたが、幕府軍の完敗に終わる。 |
敗走 | 1月3日、新撰組伏見奉行所に立てこもるが大砲を打ち込まれ京橋口まで退却。 1月4日さらに淀まで退きバタバタと倒れる。 朝廷は仁和寺宮嘉彰を征夷大将に任命、錦旗をかついだ。 |
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慶喜江戸へ | 1月6日夜、将軍慶喜は松平容保、桑名定敬、老中・酒井忠惇、板倉伊賀守らと幕府艦「開陽丸」に乗り江戸へ帰る。 | ||
幕府追討令 | 1月10日慶喜追討令が発令。 | ||
新撰組も東帰 | 1月12日、土方は海軍副総裁榎本武揚に交渉し、新撰組全員の幕府艦富士山丸による東帰に成功。44名。 | ||
官軍の進攻 | 薩長土肥ら22藩の官軍は有栖川宮を総督に、東海・東山・北陸の三道から進軍を開始。 | ||
慶喜寛永寺に謹慎 | 2月12日に江戸城を出て寛永寺大慈院に謹慎し、4月11日水戸に移るまでの2ヶ月を過ごした。、 | ||
甲陽鎮撫隊 | 3月5日、新撰組は勝海舟の命により甲府城の守備に向かうが、東山道軍参謀・板垣退助の前に敗退、八王子まで退く。 | ||
流山にて降伏、近藤極刑にて死す | 3月20日ごろ、下総流山に屯営を設け、近藤は大久保大和に変名し薩摩藩士有馬藤太に降伏。変名は伊東一味の生き残り加納道之助に見破られ、薩摩の糾問官・平田九十郎にかばわれながらも総督府の裁断は「斬罪梟首」の極刑。 4月25日、板橋刑場にて落首。35歳。 |
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土方も函館にて戦死 | 原田左之助は上野彰義隊に加わり総攻撃で負傷、5月17日死す。27歳。 土方は会津で負け、出羽庄内でも破れ、函館戦争に参加するも5月11日戦死。35歳。 |
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