仁和寺
この季節の午後は木枯らしが吹いて寒くなるのが当たり前だが、この日は好天に恵まれ夕方まで温かく、丸一日の京都を堪能できた。
時刻は午後
3時、大覚寺の門前からタクシーを拾った。
これまでずっと歩き通しでいささか疲れていた。普段ならば「そろそろ市内に戻ってゆっくりしようよ。」と弱音を吐いて終了宣言をしてしまうのだが、この日は久しぶりの京都に貪欲であった。
「仁和寺までお願いします。」とわたしは運ちゃんに伝えていた。
途中通り過ぎた広沢の池も懐かしかったが、この季節に水はなかった。なんでも池で食用鯉の養殖をやっており、観光シーズンオフの現在、育った鯉を水抜きして捕獲中ということ。やがて泥を吐かされた広沢の池の鯉が、高級料亭の食卓を飾る日も近いのか。
もう一つ目に付いたもの。通り過ぎる民家のどの庭にも、赤い南天の実が陽だまりに輝いていた。
<仁和寺地図>
<二王門>
仁和寺は二王門からの眺めが美しい。
正面一段上がったところにある朱塗りの鮮やかな二王門。「山門」とも「南大門」とも呼ばれており、江戸時代初期に建築されたもので、堂々とした風格のある門構え。左右に収められているのは毘沙門天と持国天。
知恩院の「三門」や南禅寺の「山門」と共に、京都の三大門と呼ばれているが、他の二つが唐様であるのに対し和様であるため、雰囲気が異なる。
<仁和寺御殿>
拝観料を納め御殿に上った。
白書院、宸殿、黒書院、霊明殿、遼廓亭とつながる歴史回廊は静寂に包まれている。
宸殿はもともと門跡の御座所で、儀式や式典に使用されている。細部の意匠にいたるまで配慮が行きとどき気品にあふれる桃山様式を取り入れた本格的な「書院作」で三部屋より構成。
この宸殿には北庭と南庭という趣のまったく異なる二つの庭がある。
北の庭は中央に「心字の池」をうち、滝を設け、樹木の生い茂る築山を盛り上げた優雅な庭園。
これに対し南の庭は白砂を敷き詰め、左近の桜、右近の橘を配した広がりのある庭園だ。
南庭はJR東海のTVコマーシャルだったか、若者が廊下に座り庭を眺めているところを画面で見た記憶がある。
そのせいか、若い二人が座る姿が目立った。かれらにとってこれは忘れられない尊い青春の1ページになるのだろう。
<五重塔と金堂>
まっすぐ進んで中門より石段を上った。
遅咲きで有名な御室桜は中門左手あたりに咲く。
御室の桜の開花は
4月末で、今はひっそりとエネルギーを蓄えている風情だが、この桜はほかと違って丈が短い。その理由は地盤が岩盤であるため、上にすくすくと成長することができないとのこと。そのかわり根本から枝が細かく分かれ、個性的な桜花爛漫を演出する。
右手に五重塔がすっくと立っている。
規模としては大きくないが、小高い場所に建てられているため、市内の各地から眺めることができる。常寂光寺や大河内山荘からもその姿を見確認することができた。
と りわけ背景の松の緑との調和がよく、古くから「御室の塔」として京の人々に親しまれてきた。
最奥に国宝・金堂が控えていた。
仁和寺のご本尊の釈迦如来像が祀られている。
京都御所より下賜されたもので、慶長年間に建立された「紫宸殿」の遺構だという。
平安時代の建築様式である「寝殿造」を残すものとして、建築史上きわめて重要な位置を占めるところから、国宝に指定されている。
<仁和寺とおむろ>
仁和寺の創建の話。
仁和2年(886)第58代
光孝天皇は、先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため、都の西北・大内山の麓に「西山御願寺」の建立を発願された。
天皇は翌年、その工事なかばに崩御されたが、
天皇の第3皇子である宇多天皇(867-931)が先帝の意志を継いで、仁和4年(888)に創建された。
本来「御願寺」と称する寺院は皇室の私寺をいうが、「西山御願寺」は完成と共に、先帝から受け継がれた「仁和」の年号を寺号と定め、仁和寺はこれを起源とする。
897年、宇多天皇は在位10年、31歳で子の醍醐天皇に譲位したが、その後出家得度し、我が国最初の(悪名高き?)法王となる。
さらに904年には仁和寺の中に法王の御所として「御室(おむろ)」を建立。やがて仁和寺周辺の地名ともなる。現在、京都人は仁和寺を「おむろ」の呼称で愛しんでいる。
法王は生涯仁和寺を住坊とし、真言密教の修業に励んだと伝えられる。
しかし当時の伽藍はすべて1468年「応仁の乱」にて消失してしまった。
やがて180年の長い年月が過ぎ、江戸初期の正保3年(1646)再建されたが、明治に入ってまたもや火災により消失。ギリシャローマの石の遺跡と違って木造建造物は致命的に火事に弱い。
<門跡寺院>
仁和寺の住職は代々門跡(もんぜき)と呼ばれている。大覚寺も同じである。知恩院もしかり。
「門」は天皇を指し、宇多法王に始まり、慶応3年(1867)勅命によって選任された小松宮・純仁法親王まで、実に30代1000年にわたり皇室寺院として栄えてきた。
ここでもより道になってしまうが、幕末鳥羽伏見の戦の後、錦の御旗をかかげて東征する討幕軍大総督がこの小松宮。
当時官軍に正式の旗印がなく、仁和寺霊明殿にかかっていた錦の垂れ幕を間に合わせの軍旗として用いた。(♪宮さん宮さん‥‥お馬の前でヒラヒラするものなんじゃいな♪)の東征軍歌に謳われたのがこの軍旗。
さて、このような格式の高い寺院は、よく見ると寺壁に5本の線が入っている。この線の数で寺の格式がわかるのだ。
<徒然草53段・仁和寺の法師>
徒然草(1330年ごろ執筆)で有名な兼好法師(1283〜1350本名:卜部兼好)は晩年を仁和寺近くの「双が丘」に住まいした。ご近所さんである仁和寺にまつわる話題は、自然に集まってきたのでしょう。その二つを紹介。
厳粛かつ清廉なイメージの法師も人の子。酒席での失敗はある。兼好法師はそんな人間らしい僧侶の一面を愉快に語っている。
(53段) 「仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎を取りて頭に被きたれば、詰るやうにするを鼻をおし平めて顔をさし入れて舞ひ出でたるに、満座興に入る事限りなし。
しばしかなでて後、抜かんとするに大方抜かれず。酒宴ことさめていかゞはせんと惑ひけり。
かゝるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。たゞ、力を立てて引きに引き給へ」とて、藁(ワラ)のしべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頚もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり 」
また52段では「法師が、年を取ってから、急に石清水八幡宮への参拝を思い立ち、出かけてみたものの、麓にある別の神社を石清水八幡宮と勘違いしたために、目的の石清水八幡宮に参拝しないまま帰ってきた」という逸話を載せている。 |
<きぬかけの道>
仁和寺から北東の竜安寺・金閣寺に抜ける道を「きぬかけの道」という。
贅沢好みの宇多天皇が、「初夏に雪景色を見たい」と、衣笠山に白絹をかけた話にちなんで名づけたという。
なんでも思い通りになると思いこんでいたということはないだろうが、この国がおとなしい日本でよかった???
わたしたちは花園「妙心寺」の境内を抜け、バスを拾って4条河原町に出た。疲れていたのかバスの中で眠ってしまった・・・。
<続く>
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仁和寺 |
■ところ 京都市右京区御室大内33
■交通 京福電気鉄道御室駅→徒歩10分。またはJR京都駅→市バス26系統で35分、バス停:御室仁和寺下車、徒歩すぐ
■開園 9〜16時(霊宝館は春・秋のみ公開)
■入園料 御殿拝観500円(霊宝館500円、御室桜は桜まつり期間中は入苑料300円)
■問い合わせ 電話075-461-1155
(2004年正月現在)
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