私見・頼朝と義経

<頼朝はなぜ義経を追い詰めたか?>

戦上手の義経に恐怖を覚えたのか?あるいは梶原の讒言に乗ってしまったのか?

吉川英治によれば、「頼朝の弱点は、奇瑞とか神助とかに、おかしいほど御幣をかつぐ。平家討伐の大捷(大勝利)もそれまでしばしば自分についていた神冥の加護によるもので、その威徳は自分にあるものと信じていた。義経一人の手柄にあらず・・・」と。その考えの上に梶原の讒が重なった。

これで義経の運命は決まった。後世に脈々と伝えられる悲劇の主人公・九郎判官義経の誕生である。

しかし、しばしば歴史はゆがめられて伝えられる。
しこうして真実はどうだったのか。

それまで平家を打ちのめすことに全力を傾け、それを成就したばかりの義経は何を考えていたのか?
戦略にあれだけ頭が回る義経が、頼朝の思惑、頼朝が何を考えていたかに思いめぐらせないはずはない。

(頼朝はなぜ自分を厚遇しないのか?)
(その理由は何か?)
(これから自分はどうなるのか?)とさまざまに思いは巡ったはずである。

そのときの価値観が「お家だいじ」「すべて総領の言いなりになります」ではなかったと思う。時代が違う。忠孝の精神を尊ぶ儒教が武家社会に浸透するのは江戸のころ。この時代は親子といえども平気で争う時代であったのだから。

兄を思い、すべて悟りきって死を覚悟するという発想はなかったに違いない。ましてや若い義経のことである。勝利に酔ったかれには自省より、自分を認めろという自己主張の欲求のほうが強かったと思わざるを得ない。

その考えが頼朝に恐怖を呼んだ。「弟なれども危険人物であり、鎌倉の今後に災いを起こすに違いない。かれの人気がこれ以上高まらならないうちに処分してしまおう。」という結論に達した。これが本筋ではなかったか。

腰越状>

義経が真情を込めて頼朝に訴えた、世に言う「腰越状」とは以下の通り。

鎌倉まで直訴に及んだ義経に、頼朝は会おうとしない。「なぜなのだ?」という思いを手紙に託して頼朝に届けた。
「左衛門尉源義経、恐れながら申し上げ候。

意の趣は、身、御代官の一に選ばれ、勅宣の御使として、朝的を傾け、抽賞せらるべきに、かへつて虎口の讒言により、勲功を黙視せられ、御勘気の咎を蒙る。

案ずるに、忠言は耳に逆らうとか。身、鎌倉に入らざれば、素意を述ぶることあたわず。

いたずらに数日を送る。この時に当って、もし永く恩顔を拝し奉らずんば、骨肉同胞の義、すでに空しきに似たり。

宿運、極まる所か、はたまた、先世の業因に依るか。

事新しき申し条、述懐に似たれど、義経、亡父義朝殿御他界とともに、孤児となって母に抱かれ、以来、一日も安堵に住せず、諸国を流浪、 辺土の土民百姓に服仕せらる。

然りといえど、幸慶たちまち、平家追討の恩命に会い、義仲誅滅後、更に西海へ赴き、一命をかえりみず、甲冑を枕とするも、年来の宿望をとげんとするのほか他事ある無し。

あまつさへ義経、五位ノ尉に補任せらるるの条、面目何事か、これに加えん。

然りといえど、今や憂い深く、嘆き切なり。神仏の冥助なくて、いかで愁訴を達せん。

因って義経、全く野心をさしはさまざるの旨、さきに熊野牛王宝印の裏を以て、起請文に書き進ずといえども、なお以て、御宥免なし。

今は憑む所、他にあらず、ひとえに貴殿が広大の御慈悲を仰ぐのみ。

便宜を伺い、高聞に達せしめ、誤りなき旨を恕せられ、芳免にあづからば、義経年来の愁眉をひらき、余慶家門に及ぼし、一期の安寧を得ん。愚詞、書きて尽さず、

ただ賢察を垂れよ。恐惶謹言。           源義経 

元暦二年六月

進上 因幡前司殿」
しかしながらこの「腰越状」は聞き入れられず、義経は追われる身となった。


<この項 了>

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