28章 伊達市
北海道への移住 − 先人の苦労 −


<穏やかな噴火湾>

 洞爺湖や登別温泉など周辺に観光地を抱え、内浦湾に面した伊達市は、道内ではもっとも気候的に恵まれた町である。

風光明媚な噴火湾 内浦湾のことを別名・噴火湾と呼ぶ。
 つい最近噴火してその様子が実況中継で全国に流された有珠岳や昭和新山など、地下にマグマが溜まっている活火山域にあることから噴火湾の呼び名がついている。
 そんな危険性を度外視すれば、積雪量も少なく、いまや高速道路も通じて札幌へのアクセスも格段便利になり、安定的な日常生活が営める豊かな田舎町である。

 気候・風土的な優位性から有史以前から人類が住み始めたことが確認されており、アイヌ以前の埋蔵文化財の学術研究も熱心に行われている。

 人口3万人足らずのこの町を訪れる機会は少なかったが、印象深い町であった。


<仙台・伊達亘理藩の移住>

 宮城県亘理町といえば「いちご」や「りんご」などの果物が名産。

 かつて一村一品運動が華やかなりしころ、仕事で、その名産品を通信販売してみようという話が持ち上がった。それまで亘理という名前すらわたしの地図の中にはなかったのだが・・・。

 仙台伊達の支藩であった亘理藩は、幕末の戊辰戦争で幕府軍についたため維新政府にその俸禄のほとんどを取り上げられてしまう。困窮の中で家老の田村顕允(常盤新九郎)は亘理伊達家15代当主・伊達邦成を説得し、北海道への移住を画策する。武士の体面を保ちながら力をあわせて原野を開拓しようという考えであった。

 太政官から有珠郡支配の辞令を受けた後、明治3年(1870)3月27日から移住は始まった。亘理藩第1陣の50名は松島湾を出港、4月6日室蘭に上陸、長流(オサル)川の南、モンベツ(伊達市)に向かった。
 以後集団移住は明治14年4月までのほぼ10年間で合計9回にわたって行われ、2700人もの亘理人が北の大地にわたり住んだ。

 結果、集団移住としてもっとも成功した例として、後世に語り継がれることになったのだが、開拓の日々はことばにするのも切ないほど苦難の連続であった。


 かれらが入植した昔は、地球温暖化の現在とは比べようのない寒さであったことはまちがいない。加えて、火山灰大地のため農作物を栽培するには困難が多い。かれらは先住民のアイヌと和し、アイヌの生活の知恵を学びながら寒冷な風土を克服した。もちろん昼夜を問わず開拓の鋤を打ち下ろした。見渡す限りの原始林と熊笹に覆われた荒涼とした大地を耕し、耕地にしていく地道な作業が続けられた。

 
 彼らの成功の裏には、家老・田村顕允の、現代に通用する綿密で周到な計画があった。
単身赴任は情緒不安定に陥るからご法度。現地で必要と思われる技術者を引き連れていったこと、先住のアイヌと交流を深め極寒の風土を克服するノウハウを謙虚に教えてもらったことなど・・・

 さらに進取の精神も旺盛で、開拓使を通して新しい農業技術の吸収に努めた。田村は、実は札幌農学校のクラーク博士にも会っている。クラークは室蘭から日本を去るときに伊達の田村と会い、北海道農業の今後について知恵を授けている。そしてこのことがその後の北海道農業の進展におおいに寄与したという評価がある。


<魂の継承>

 伊達市の商店街通りに入植以来の店舗を構える4代目の店主は青年会議所のリーダーでもある。定期的に上京し、新しい情報の獲得にも余念がないが、ご商売の契約に関しても慎重で、たいせつな店の守りも万全である。

 先人の苦労と歴史の上にできあがった「店」「事業」は、何人にも侵害させないという思いが強く、また情報武装しながら地道にご商売を発展させていくという熱意がすごい。

 町の景観は瀟洒に生まれ変わり、開拓時代の面影を残すものは少ないが、開拓者魂はここにも残っていた。たぶんその魂は子から孫へ、その子供へと語り継がれていくに違いない。

 谷藤川に沿って細長く広がる萩原町に歌碑がたっている。
伊達家家中・佐藤脩亮は藩主・邦成の命を受けて伊達の地名に因んだ和歌二十首を残したといわれている。その中に帰りたくても帰れない故郷亘理に対する哀切の情と熱い想いがしみじみと歌いこまれている。そのうちの一首。

  宮城野の 秋の錦を いまここに 
             うつしてそ見る 花の萩原

<続く> (2003.12.13)

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