26章 美瑛


< 雨後の虹 >

 美瑛を描く「美瑛」の存在が気になりだしたのは、わたしが北海道に移り住むことになる少し前、1990年ころのこと。

 「丘」をテーマにした1枚のポスターが脳裏に焼きついて離れなかった。
それまで「北の国から」の富良野は全国的に注目を集めていたものの、隣町・美瑛は知る人ぞ知る畑作の田舎町でしかなかった。



 転任間もない1995年6月のある午後、旭川から札幌への帰り道、はじめての美瑛を走っていた。

 折悪しく旭川から富良野に抜ける富良野国道は初夏の通り雨にたたられた。風雲は急を告げ、土砂降りの雨が美瑛の緑の台地を襲った。しかししょせんは夏の雨、しばらく猛威を奮ったと思ったらいつの間にかぴたりと止んだ。

 すぐに雲の合間に青空があらわれ、やさしい陽射しが射してきた。その黄金色の陽光のなんと神々しいことか、この情景は上空を澄んだ冷気が流れる北海道だけのもの。空気がきれいな北国だからこそ目にする明確な光景。
 雨上がりの澄みきった青い空に、残る彩雲がはっとするほどの光彩を放つ。はたして、道の行く手に大きな虹のアーチがかかった。

雨後の美瑛カルビー館 カルビー社の「ポテトチップの館」の前で記念写真を撮った。
 ブラウンのとんがり屋根とベージュに塗られた明るい
壁、中庭の芝と木立の緑は空の青さにマッチして、西洋のおとぎ話の世界に入り込んだようであった。
 迎賓館の役割を果たしているというその館がひときわ輝いて見えた。

< ピイエ >

 美瑛命名の由来のこと。
 十勝岳に源を発した川が美瑛の町を流れている。

 松浦武四郎がはじめてこの地へ来て、その川の水を飲もうとすると、アイヌ人が「ピイエ、ピイエ」と叫んで止めた。ピイエとは油ぎったという意味で、それは十勝岳に噴く硫黄が混じっていたからである。「美瑛」という名称はそのピイエから採っている。

< 拓真館 >

 美瑛を「丘の町」として全国に知らしめたのが風景写真家・前田真三氏。その「拓真館」は美馬牛(びばうし)駅の近く、新星の丘に立っている。富良野国道から東に入り、くねくねと曲がる細い道を4キロほど上る。

 この写真館は
1987年に前田さんが、廃校になっていた旧千代田小学校の建物を買い取って開設した。
 
周囲は千代田公園としてラベンダーや白樺が植えられ、すぐ近くにひまわり畑もあり華やかな夏を映しだす。

 前田さんと美瑛との邂逅は1971年にさかのぼる。
 鹿児島県佐多岬から北海道宗谷岬まで3ヶ月をかけて撮影旅行を敢行、その途中偶然にも美瑛の丘の風景と出合った。以来、魅せられたように通い続け、美瑛に関する作品集を制作し、また個展も数多く開催した。最終的に氏の思いは前述の拓真館に結実した。

 前田さんは富良野・美瑛の自然のすばらしさを四季を通じて撮影し、その作品は、いながらにして真の北海道を満喫させてくれる。
 
 拓真館ではかの地の作品ばかりでなく、全国津々浦々に足を延ばして撮影した数多くの作品が展示され、旅好きのわたしをあきさせない。
 わたしにとっても一コマ一コマに懐かしさ、昔ここに誰それと訪れたなどという記憶が呼び起こされ、それは人生をトレースするような貴重な時間となった。ポスターを買い求め殺風景な単身赴任のマンションの壁に貼り、絵葉書をせっせとしたため東京の友人や家族に送った。


 その後北海道旅行の娘を連れ、あるいは定期的なメンテナンスに訪れるママさんを連れ、そのママさんの友人を連れるなど、いく度となく訪問を繰り返すことになったが、彼女たちは、いちように拓真館周辺の美瑛の岡に賛美を惜しまなかった。



 もちろんわたしは前田さんを存じ上げないが、広い日本の中でここが一番という思いがあって、私財を投じて立派な写真館を造られた。北の大地にはそういった方が多いが、たいへんな勇気を伴う。立派だと思う。
 そういった生き方にあこがれるのだが、能力も行動力もなく、小心翼翼としている。

 前田真三氏がこの地で病床につき、執刀後亡くなったのは199811月のことだった。享年76歳。ご冥福を祈る。


< 美しき丘の町 >

 繰り返しますが美瑛は丘の町。
 先人が苦労して開墾した耕地は、シーズンそれぞれに独特の色彩を織りなす。ジャガイモ畑や麦畑、休耕地までが主役となって、ゆるいカーブの丘に自然色の縞模様を描く。



 この丘がテレビコマーシャルにたびたび登場することになり、全国的な注目を集めるようになった。
 最初は大空にまっすぐ伸びる1本のポプラの木だったと記憶している。30数年前だろうか、この木が「ケンとメリーのスカイライン」の背景に登場、一世を風靡した。

 プリンス自動車の名車、「羊の皮を着た狼・スカイライン
GT」がいつの間にか姿を消し、イメージを変えたスカイラインが誕生した。ニッサンがプリンスを吸収した時代だったろうか定かな記憶はないが、シルバー車体のケン・メリは強烈なイメージとして残っている。抜群の売れ行きで、とにかく走る車だった。

 次は昭和51年(1976年)の「セブンスターの木」。この木は、丘の上にすっくと立つ1本の柏の木。当時わたしも愛飲していた煙草「セブンスター」の観光用タバコに採用された。この南側に離れてマイルドセブンの丘がある(昭和52年採用)。当時、日本たばこ産業株式会社の宣伝担当か、クリエイティブを担当したデザイナーは美瑛がお気に入りであったような・・・。

ランドマーク・北西の丘展望台と雪の十勝岳連峰 ほかにも丘や木に名前をつけて積極的に観光資源を開発している。本の柏の木が仲良く並んでたつ「親子の木」。「かぜ」「かおる」「あそぶ」のお尻の字を組み合わせた「ぜるぶの丘」などなど。そして、このあたり一帯を巡る道を「パッチワークの道」と総称している。起伏が多い丘の畑にはさまざまな作物が植えつけられ、パッチワークのように季節それぞれに景観が変化し、それが旅人にナチュラルな感動を与える。


 ただし、ここは純然たる農作耕地。旅人は、くれぐれも作業の邪魔にならないように気を遣わねばならない。

<続く>

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