5章 旭川
<買物公園>
北海道第二の都市・旭川は、上川盆地の中心にあり、商業の中核をなす。
駅前からまっすぐ1qほど北に伸びるメインストリートは、「平和通り買物公園」として市民に親しまれている。両側に百貨店や専門店が軒を連ね、夏は花壇が色とりどりに花を咲かせ、噴水が短い夏の涼しさを演出する。
<川の町>
旭川は川の町。
北海道の地勢図を広げるとよくわかるが、旭川の町は広大な上川盆地の底に位置する。周囲の山々や高みから大小の河川が市内に向かって流れ込んでくる。昔の人はその水を利用して灌漑設備を施し水田耕作に利用しようと考えた。最初に旭川開拓のために入植したのは、拓地殖産の任務を負った屯田兵で明治25年のこと。
さて川のこと。道央道の鷹栖インターから市内に入る手前、近分の辺り、右側に大河・石狩川が流れる。石狩川は旭川市内で、美瑛川・忠別川・牛朱別川というそれぞれ著名な支流3川の水を集め、滝川・砂川・美唄・岩見沢などの道央の都市を貫いて日本海・石狩湾に注ぐ。北の大地を滔々と流れるこの川が人々にもたらす恩恵はきわめて大きい。
また旭川は道東、道北へ向かう交通のターミナルでもあり、車で少し足を延ばせば周辺に観光名所が数多く存在する。
東の層雲峡は紅葉と滝と温泉で全国に名を売る観光旅行の定番。西には高倉健主演・「駅(ステーション)」の舞台となった留萌・増毛の町と荒れ狂う日本海。
南は丘の町美瑛、「北の国から」の富良野が隣り合わせており、晴れた日には大雪山連峰が鮮やかに街の背後に連なっている。
<明治からの親の背中>
この町で、極寒の地に移り住んだ家族の苦労の歴史を見た。
老舗の時計宝飾店「秋田堂」はその名の通り秋田から移り住み、この町で創業90周年を迎えた。長い長い道程であったように思う。
旭川の町が、西部劇の砦のような体裁を整えた直後、明治30年代の移住である。前述のように最初の屯田兵の入植が明治25年だから、まさに尖兵の役割をになった。暖を取るにも苦労した零下30度の凍える台地、寒風が吹きすさぶ。食べるものが十分にあったとは想像できない。そんな悪条件のなかで一族郎党が肩を寄せ合って生きてきた。
周年記念は旭川随一のホテルで開催された。
来賓祝辞の後、親子三代の感謝のスピーチがあった。
それぞれが、毎日を努力精進する親の後姿を見ながら生きてきた。親の苦労を身近に見て育ってきた。甘えと妥協が身を滅ぼす、限りなく厳しいこの土地で、自律の戒めを自らに課して生きてきた。
平生とはまったく次元の違う世界、歴史があった。
式が終わった後も、飲み会が続く。親子とも、周りを囲む人たちに対する感謝の念を忘れていない。そして、ここまでよくやってこられたという安心感と、次世代につないでいこうという決意が感じられた。
現代社会で希薄になった親子関係が正しくここにあった。
<続く>
<番外1:旭川ラーメンのこと>
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ラーメン好きなわたしは旭川出張の折、市内のラーメン屋をよく食べ歩いた。北海道ラーメンは、何時のころからか「札幌は味噌、旭川は醤油、函館は塩」とそのスープ味の評判が特定されるようになった。それにこだわるのはナンセンスと思うのだが、わたしの旭川ラーメンは老舗の「蜂屋」の醤油が多かった。魚出汁・醤油味のこってり系スープ。旭川麺の特徴は中細の縮れ麺でスープがよく絡むし、スープを吸い込むが、際立って濃厚なスープでもなく、臭みも気にならなかった。たまに「梅光軒」の味噌や「山頭火」の塩もいただいた。各地に進出する「山頭火」の勢いはすごいと感じるのだが、ほどほどがよいのではと思う。でないと、飽きられてしまう。人の舌の感覚は移ろい易い。どこでも食べられるようになったら、下り坂
と思うのはビジネスの常道。いらぬおせっかいか?
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<番外2:最近の話題「旭山動物園」>
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1995年に、動物たちの生き生きとした姿を際立たせる『行動展示』を導入し、動物園として一躍全国区に躍り出た。
『あざらし館』や『もうじゅう館』『おらんうーたん館』など子供たちに動物の動きをより具体的に見せる工夫が凝らされている。150種類、800匹の動物すべてで活用し、
96年に26万人であった年間入園者数は、2004年度には全国3位の145万人に。全国の動物園関係者から視察が続いているという。
動物園のマンネリ化からの脱皮?わたしたちの身の回りにもこういうことはたくさんある?(2005年5月17日)
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