小石川後楽園

春 秋−2


 その1にも書いたがこの時代の大名庭園は、現代で言えばさながらテーマパークというところでしょうか。全国の名所旧跡を園内にちりばめている。

唐崎の一つ松

唐崎の松は花より朧(おぼろ)にて    芭蕉

芭蕉は近江八景のひとつ“唐崎の一つ松”の朧を眺めて、謡曲・三井寺に出てくる“一つ松”の母と孤児を想いつつ歌った。大津の弟子・千那の別院で詠んだという松は、豊かな枝を湖に広げ、悠然として美しい。

ところで小石川後楽園に唐崎を真似て松が植えられたのと、芭蕉が唐崎の松を詠んだ(貞享二年=1685芭蕉42歳)のとどちらが早いのだろうか。造園主の光圀は(1628−1701)だから、このとき57歳。

難しい名前だが、琴御館宇志丸宿弥(ことのみたちうしまろのすくね)という方がが「この地に居住し松を植えた事に始まる」と、地元大津市にある日吉大社(山王権現)の古記に記されている。古人は数多くの詩歌を残している。

三代目となる現存の松は二代目の実生であり、「唐崎の一つ松」「唐崎の孤松」と呼ばれ、大切にされてきた。

唐崎の 松は扇の要にて 漕ぎ行く船は 墨絵なりけり  (古今集 紀貫之)

小廬山(しょうろざん)と蓮池



左側オカメザサに覆われた小山が小廬山

 中国の名称地「廬山」にちなみ京都清水寺いったいは「小廬山」と呼ばれている。そのめいめいは寛永17年林羅山による。

富士山ろく白糸の滝

渡月橋

写真で見る限り京都嵐山の渡月橋とは似ても似つかないが、邸内に川を流しその上に象徴的な橋をかけた。それでよかった。
 江戸の造園大名たちは、こぞってこの桜の名所を園内に造ったのではないだろうか。

渡月橋の呼称は、亀山上皇が曇りのない夜空に月がさながら橋を渡るようなさまをみて「くまなき月の渡るに似る」と感嘆して名づけたという。月も桜も欲しいものは何でも身近に置いておこうという気ままなみなさん。現代ならば早速国会で追及ということになったのに、この時代の大名たちはよかった。


神田上水

宇治平等院は宇治川の水を邸内に引いて、足利将軍義光は干満の差を楽しんでいたようです。民百姓が、日照りの夏に飢饉で苦しんでいるときにも・・・(?)。

小石川後楽園にも邸内に神田上水が流れていました。
 この流れは美しい。現代においても、とても都心とは思えない景観である。

興味ある事実は、文京区のもうひとつの上水である「千川上水」は柳沢吉保(16581714)の屋敷を通っており、あの「玉川上水」は内藤屋敷の庭を通っている。権力者の構図が見えてくるような気がします。 

昔は水利を争って戦争が勃発などという話は珍しくなかった。水を治めるものが国を治めるという理屈もあった・・・。

蓬莱島

 後楽園の大泉水は『琵琶湖』をイメージしているが、その真ん中に蓬莱島を配している。
 中華の「神仙思想」に基づく作庭だ。東方はるか彼方の海上に蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)と呼ぶ島がある。そこには神仙人が住んでおり、今も幸福な生活を送っている理想郷だと説く。
 その島は亀や鶴の形をしていると信じていた。だから、島には亀頭石、両足石、両脚石、尾崎石を立てるべきだ。これがもっとも大事であると、神仙思想をよりどころにする庭師は強調する。
 先端の大きな石は鏡石はその庭師・徳大寺佐兵衛にちなみ「徳大寺石」と名づけられ、弁財天を祀った祠がある。



亀の頭

寝覚の滝

水戸の梅林

円月橋

 朱舜水の設計と指導によって江戸の名工「駒橋嘉兵衛」が作った。橋が水面に写る姿が満月に見えることから命名された。
 後に八代将軍吉宗が江戸城内に作ろうとしたが、ついに果たせなかった。
 関東大震災にもびくともせず、現代に残されている。

八つ橋

八橋といっても京都の銘菓『八橋』のことではありません。

在原業平(825-880)らしき(史家の判断)主人公で有名な「伊勢物語」(平安時代初期の作品)のつぎの一説はあまりにも有名で、また古文の教科書や試験に出て記憶に残っています。 

「三河の國、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける」
 ここで業平はさらに有名なかきつばたの句を詠みました。
 「からごろも 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」

八橋は現在の愛知県知立市のあたり。無量寿寺という寺があって八橋伝説が残っています。 
 かつてここには数々の詩人が訪れそれぞれに歌を残していますが、漂泊の詩人・山頭火は次のように歌っています。
 「むかし男ありけりという松が青く はこべ花さく旅のある日のすなほにも 枯草にかすかな風がある旅で」 

ずっと昔、水戸の黄門様も全国漫遊の際ここを訪ねて、お気に入りになったのかもしれません。 

・・・・・ついでにお菓子のいわれに触れますが、こちらの八つ橋は江戸時代の筝曲作者・八橋検校からスタートします。

近世筝曲の祖として、名曲「六段の調べ」「八段の調べ」「輪舌」などの作曲で広く知られる八橋 検校は、慶長十九年(1614)、今の福島県いわき市に生まれました。モノを大事にしていた検校は、残飯の小米、砕米に残りの米を加え、蜜と桂皮末を混ぜて、堅焼煎餅を作ることを提案します。これが八つ橋の原型でもある「堅焼煎餅」の起こりと伝えられています。


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