汗をかきかき、川越城本丸跡を目指して歩く。
人の流れがそちらに向かっているので、そんなに人気があるのだろうかとハテナ?と思ったが、その疑問はすぐに解決した。
その史跡の目の前に広い野球場があり、夏の高校野球県大会の真っ最中であった。三連休の中日、灼熱の炎天下、プレーする若者も、応援するおっさんたちもご苦労様。
途中、「川越高校」の校舎の前を通過したが、前を歩く尾張守殿が「ここは、男子のシンクロで映画になった学校じゃないの?」と、仰せになった。
「ウォーターボーイズでしょう!」とわたし。
そのプールが道路脇にあったので、金網越しにのぞいてみた。背の高さほどあるプールなので中は見えなかったが、夏の日差しの中でみなさんがんばっていることでしょう。映画だけでなく、ホンモノも見てみたいですね!
<川越城>
川越城の築城は15世紀半ばに太田道真・道灌父子によって行われた。
その当時、室町幕府の権威失墜とともに、関東は長い戦乱状態に入っていた。
道灌は扇谷上杉定正の執事として上杉家の滅亡を阻止するため獅子奮迅の活躍をしたが、
凡愚の主・定正に妬まれ暗殺される。
立派な店構えの「道灌まんじゅう」、だんごもいいが、人気はやはりさつまいも系
ここは川越市郭町。「くるわ」の意味はお城の郭である。わたしは遊女の廓と誤解したが、ここにもう一つ、立派な建物があった。蔵のかたちをした白亜の豪壮な建物である。手前が美術館、奥が博物館で二棟が並んで立っている。
川越城二の丸跡に建てられた博物館と美術館、博物館の常設展示は近世川越
しかも、川越市立であることに驚かされた。こんなに大きくて立派な建物を維持するのは並大抵ではない。建物などハード面の管理はいざ知らず、ソフト面の運営管理がより難しいのではないだろうか。
立上げ時の存在意義やコンセプトワークなどの基本の構築に始まって、展示方法や動線の検証、企画展やイベントの招致、年間計画、集客、コスト管理など、その困難は想像に難くない。なによりもお客様が来てくれないと画餅に終ってしまう。
ただ川越の子どもたちは、博物館に通って地元の歴史や産物、偉人の物語に触れ、川越を学習する。郷土愛を育んだ子どもたちが、やがて成人して、郷土に恩を返してくれること、これだけは間違いない。教育は川越百年の計となる。
暑さでぐったりもいるが、たいていの子どもの目は輝く
「菓子屋横丁」などという珍しい横丁は川越にしかあるまい。
このあたりは昔、曹洞宗・養寿院の門前町であった。
明治に入って鈴木藤左衛門がこの地に住んで、江戸っ子好みの気どらない駄菓子を製造したのが横丁の始まりといわれる。
町の隆盛はかの関東大震災が基点となる。菓子問屋の多かった東京の神田・浅草・錦糸町が壊滅的な打撃を受け、川越に注文が殺到した。七十余店が軒を連ねシソパン・千歳飴・金太郎飴・麦落雁・水ようかん・かりん糖など、数十種類の菓子が製造されていたという。
川越の子どもたちは幸せだった?
3坪広場で口上を述べながら、冷たい「串きゅうり」を売る旦那さん
この横丁は、買い食いの中で幼時を過ごしたわたしには懐かしい光景だ。
5円、10円で駄菓子が買えた時代だ。わたしの記憶では50銭硬貨で1個のキャラメルを買ったこともある。硬貨としては立派で、今の10円硬貨よりはるかに価値があったのではないだろうか。
そういったセピア色の記憶から50年もたってしまうと、話す言葉も「お父さんの子どものころはネエ。」ではなくて「おじいちゃんの子どものころはナア。」になってしまった。しかしそんな年月の空白を埋めて今も、昔あった駄菓子屋の場所や店に立っていたおばさんの顔まで思い出すのはどういうことなのだろう。子ども時代の根源的欲求であったからなのか、その記憶は風化しないで心の襞にいつまでも住みついている。
サツマイモは徳川8代・吉宗(1684〜1751)の時代に、教科書にも出てくる青木昆陽(1698〜1769)が全国に普及させた。寛政の改革の一環であったか、蕎麦と同じで、凶作時に対処するための救荒植物(食物)である。
「川越イモ」は、城主松平大和守が10代将軍家治に地元産のサツマイモを献上、その皮の美しさ、味のよさからブランド名がついた、という話がある。
江戸に焼きイモ屋が出現したのは、寛政年間(1789〜1801)といわれる。なかでも川越周辺の武蔵野台地で収穫されるイモは甘く、「栗より美味い十三里半」ともてはやされた。このコピーは秀作だと思うが、その意味は「栗(九里)より(四里)で十三里、それより美味しいから十三里半」ということのようだ。
たちまち江戸中に広まり、需要が増大。それに伴って、供給地としての「川越」の名声は高まり、「本場」の地位が固まっていった。
サツマイモのルーツを訪ねると、中南米で生まれ、それがコロンブスの手によってヨーロッパに持ち込まれたのが十五世紀。そしてその終わりごろ、新大陸発見とともにアメリカに渡った。同時期に東南アジアにも伝わり、そこから沖縄を経て薩摩・鹿児島へ入ってきた。
青木昆陽はそこまで予測しなかっただろうが、太平洋戦争で日本人の食糧難を救ったのがこのサツマイモであることは疑う余地がない。
<続く> 「その3」へ
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