< 武州川越 >

本川越駅前灼熱のさなか、川越の町にやってきた。
 最初の訪問は西武鉄道の企画に乗って、二度目は仕事の帰りに、そして今回は三度目で、テニス仲間と誘い合ってきた。埼玉県の田舎町だが、江戸時代から「小江戸」といわれてきた町は全国でここしかないそうである。

ではなんで「小江戸」と呼ばれてきたのか、その理由は・・・?

 この町は江戸時代を迎え、川越街道と新河岸川の水陸両道が開かれ、幕府の直轄地であったこともてつだい江戸との関係がより密接になった。
 当時の産物といえば、後に「川越芋」と呼ばれたサツマイモだろうか。あるいはその他の農産物もあったに違いないが、その食料や、木材を大量に江戸に運んだ。江戸の初期は、築城や街造りのために木材や石を大量に必要としていた。その労働力を支える食料も必要であった。水陸に輸送路を持つ川越は、江戸にとって便利な供給地となった。
 そしてその見返りとして江戸の文化が川越に入り込んだ。一番早く伝えられたという。いつの日にか江戸に対して「小江戸」と呼ばれるようになり、城下町・川越は繁栄することとなる。

大正浪漫夢通り

40キロという丁度良い距離も味方した。近づき過ぎずまた離れ過ぎず、瑣末な災いに巻き込まれることもなく、コンパクトにまとまって繁栄を享受することができた。

ただこの町は、明治以降苦労したのではないだろうか。

江戸の庇護があっただけに、その庇護を離れたときの苦労は倍加する。のほほんとしていられなくなった。たっぷりと運営資金があれば文化遺産も護れるが、財がなくなったら文化どころではなくなる。そんな長い苦労のときを超えて、この町は今またよみがえろうとしている。

 わたしたちは西武線の本川越で下りて、中央通を右に折れ、まず喜多院に向かった。


喜多院本殿・重文

<五百羅漢>

「ねえ、ここには自分に似ている羅漢さんがかならずあるんですってよ。」というのは親子連れのヤングママ。

「キャー、似てる、似てる!」「××さんと似てるよネエ!」とスリムな若い二人は異常に盛り上がっていて、かまびすしい。白い歯が眩しいくらいだ。

この石の羅漢群像は川越大師・喜多院にある。喜多院は、かの金地院崇伝(こんちいんすうでん1569〜1633年)とならんで、徳川時代の最大の政僧である天海(1536〜1643年)の寺である。天海は、天台、真言を学び、のちに、独自の神仏習合の思想をつくり、家康を東照大権現として神仏化した大怪僧である。

しかし羅漢さんは当時の政権とはまったく異なる次元で制作された。

ラゴラ像民衆の力による、新しい一つの信仰、あるいは芸術の誕生がそこにある。民衆は一個一個を、名も知らない何人かの石工芸術家に託した。それによって彼らの父母や近親者の霊を弔うとともに、一つの庶民信仰をそこに確認したのである。北田島村の志誠(しじょう)という人物が発願し、天明二年(1782)から約50年の歳月をかけて、535体もの羅漢が完成した。

喜多院の羅漢さんが人気なのは、聖人君子ではない人間っぽさによるものだろう。どこにでも転がっている庶民の日常的な生活や思索する姿、あるいは幸せを願う心などを的確に表現している。

お腹に菩薩を抱いた羅漢は、ラゴラ(釈迦の長子)像というそうで、これなどは旧時代のおどろしさが残っているが、表情は柔らかだ。一般的には穏やかな風貌の羅漢が多い。

気持ちよさそう

眼を閉じて横たわり、足を揉ませているのはどこかの坊さんかと思われたが、これはひょっとして釈迦の涅槃図のパロディなのかもしれない。あるいは「奥の細道」の芭蕉と曾良のようでもあった。

人間くささの筆頭は「鼻くそをほじくるおっさん」だろうか。こっけいここに極まれりというところだが、わたしもその姿を人に見られているのかと思うと、笑ってばかりはいられない。
 とにかくそんなこんなが500以上も並ぶ光景は壮観である。

五百羅漢ーだれだろうか?

最初の若いママさんの言葉が気になった。
 「自分に似ている羅漢」の「似ている」は容姿ばかりではない。心が似ている、気持ちが似ている、喜びや悲しみや悩みや、快哉や深沈とした思索や、一仕事終えた後の安堵感など、今日の自分の心や感情など内面にこそ似ていると思った。それならわたしと似た羅漢さんはきっといる、これは間違いない。


<喜多院の歴史と文化財>

拝観口話は五百羅漢に走りすぎたが、喜多院は江戸よりずっと昔の平安初期、天長7年(830年)、淳和天王の勅により天台宗三代座主・慈覚大師円仁により創建された。本尊に阿弥陀如来を祀り、不動明王と天部の毘沙門を祀り、「無量寿寺」と名づけられた。

それより後年の永仁4年(1296)、といえば鎌倉幕府が元寇で疲弊しきったころ、尊海が出て中興し、関東天台宗の中心となった。

木造伽藍の宿命から、消失、再建を繰り返すが、寛永の大火後、家光の命で江戸城・紅葉山から移築された客殿、書院、庫裡(いずれも書院造りの様式を備え、慶長年間建築。国重文)が現在に残った。
 書院造といえば茶道と結びついて安土桃山時代以降、信長、秀吉によって隆盛を見、また現代の日本家屋の原型ともなっているが、当時の城郭建築としての書院造は、いまやほとんど消失してしまった。その意味で重文としての価値は高い。

鴬張りの渡り廊下

わたしたちも入場料を払い拝観口をくぐった。

庫裏、書院、客殿と廻り、鴬張りの廊下を伝い本殿(慈恵堂=じえどう)にわたる。

 同行の伊豆守殿が「おなりー、殿のおなりー!」と厳かに声を発したら、「へへー!」とすぐに反応して頭を下げた小学生がいた。(乗りのいい奴だ!)と思ったが、なかなか可愛くてよかった。

 書院の奥の、「小堀遠州作庭の庭園」は秀作である。
 この庭は実際に遠州が造ったかどうかさだかではない。旅嫌いの遠州は備中松山に暮らし(晩年は京都・伏見)、生涯2度江戸に上っているが、そのとき家光の意向を受けて、この庭の監修ぐらいはしているかもしれない。
 家光の乳母・春日の局とも入魂であったようだ。


 かれは茶の湯に優れ、天下第一の茶匠の地位に上りつめ、武芸茶人の筆頭に挙げられた。その茶の湯は「きれいさび」と評され、将軍家(家光)茶道師範名を得て遠州流をおこした。
 建築や造園にも天才的な腕を発揮しており、今日でも目に触れることができる二条城二の丸や江戸城の庭園等数々の建築や庭園がある。

小堀遠州作喜多院の庭

喜多院には「家光生誕の間」や、その乳母「春日のつぼねの化粧云々・・・・」、「狩野吉信の職人尽絵」など見どころは多彩である。じっくり味わう時間があればもっと楽しめる。

ここには江戸の歴史がたくさん残っていた。

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小江戸 川越

コンパクトな街の歴史散歩・・・その1