鎌倉の秋
禅宗寺院と運慶と女優

鎌倉の秋
その1
禅宗寺院と運慶と女優
2011年10月


1) 葉山森戸海岸の夕映え

森戸海岸に夕暮れがせまっていた。

海は凪いで、辺りは静寂に包まれていた。沈もうとする夕日がまばゆいなか、なぎさを犬を連れた女性が散歩する姿は、まるで絵葉書のようである。

夕陽に向かってカメラを構える老紳士がいた。

「ここからは富士山がよく見えるんですよ」

そういえば逗子開成高校の校歌は、「天地分くる富士ヶ嶺の 裾にひろごる秋津島」 と、富士の峰で始まる。

また同じ逗子開成中学の生徒12人を乗せたボートが転覆、全員死亡した事件を唄った曲があった。“七里ガ浜の哀歌”と呼ばれている。

♪ 真白き富士の嶺、緑の江の島 仰ぎ見るも 今は涙 歸らぬ十二の雄々しきみたまに 捧げまつる、胸と心 ♪

 残念ながらこの夕方の江ノ島方面は薄い雲がかかって、視界を妨げている。

***

「じつはここからダイヤモンド富士が見えるんですよ」

老紳士は意外なことばを口にした。

「年に24月のはじめと8月の末に、天候次第ですが富士山の天辺に夕陽が沈むときダイヤモンドの光彩を放ちます」 という。

「江ノ島のちょっと右側あたりに見えます」

わたしはてっきり山中湖あたりのことを言っているのかと聞き返したが、「いえここからです」という。

「まるで後光がさしているようで、たいへん神々しいですね!」

ここは森戸神社の裏で、傍らに「かながわの景勝50選 森戸の夕照」の碑が立っていた。

***

しばらく夕陽の光景に見入っていると白髪の老婦人から声をかけられた。

「どちらからいらっしゃいました?」

ことばが丁寧である。夕刻の寒さを感じ始めていたが、この方との話が楽しくて、30分ほども話し込んでしまった。

ご自身は、葉山に嫁に来てからすでに65年が経つというから、80歳は優に越えていらっしゃる。

「毎日ここに来て海を眺めております。一日として同じ光景はございませんのよ。相模湾はいつも静かですから、台風が来てもそんなに荒れることはありません」。

問わず語りにご自身の人生のことを話し出した。

「息子はもう60歳を過ぎましたが、今はシアトルに住んでおります。地元の開成高校を卒業してワシントン大学に留学して、ずっと向こうで暮らしをしておりますが、寂しいですね」。

***

海の際に「太陽の季節」の裕次郎のレリーフがある。

「夢はとおく 白い帆に乗って 消えていく 消えていく 水のかなたに」 と刻まれている。

「あのご兄弟も地元の学校に通っておりました。最初は街道筋にお宅がありましたけれども、あの本(太陽の季節のこと)が売れてから山の中腹の、ほれ、あそこに見えますでしょう!あの白いお家に引越しされたようです」。

「ご近所には同級生もいらっしゃいますから、このあたりの海で悪い遊びを散々されたようなことをおっしゃっていましたよ」。

「そうそう、あの政治家の方?」 「石原伸晃さんですか?」

「ええ、そうです。あのかたがそこに見える白いマンションを、鹿島建設が建てたのですが、売り出す前から購入されたようですよ。お住まいになってはいないようですが」

ウン、その情報もおもしろい。


2) 森戸海岸の宿

・・・・・「あちらに見えるヨットをつないでいるところ(葉山マリーナのことか?)は、三郎助さんが作られたようですが、いまは人手に渡っているようですね。三郎助さんはこちらのご出身ですが、今は東京にお住まいでございますでしょ」。

三郎助? ふーん? 鈴木三郎助のことだろうか。であるなら“味の素”の創業者である。

いまや食品業界の巨人、ならぶものがないほどの興隆を誇っている。

「あのあたりの土地はみな三郎助さんのお宅のものでした。今は変わりましたけれど・・・」。

65年もこの地に住んでいるから地元のあれこれに詳しい。

「鎌倉の昔、このあたりに頼朝さんの別宅があって、この海がもっと遠浅になっていたようですが、馬場だったのですね。鎌倉はすぐそこですから・・・」

***

話はあちらこちらに飛ぶが話したいことが山ほどあるようだ。

「葉山町は最近も逗子から合併しないかと声をかけられたようですが、町長さんはお断りになったのですよ。それだけ豊かだったのでしょうね」
 
あるいは御用邸のある葉山町のプライドだろうか。

「昔はこの森戸神社の境内で相撲の興行もありました。『名寄岩ご一行様』などという幟(のぼり)があがって賑やかだったことを覚えております」

秋の日はつるべ落としというが、海に沈む夕日はすぐには落ちない。

それでも長袖を通して寒さが肌にしみてきたので、話を切り上げさせてもらった。

「いつまでもお元気でお過ごしください」とご挨拶をすると、老婦人はキャッチボールをしている子どもたちの間をぬって何処かへ去っていった。その後姿に言い知れぬ寂しさを感じた。

***

宿では熱すぎる風呂が待っていた。

浴衣に丹前姿で食事処にいくと特別料理の魚たちが勢ぞろいだ。

酒盛りの開始である。間違えたかなと思ったのは刺身のオンパレードであったこと。刺身は半分にして、あとは煮魚にしてもらえばよかった、そう思ったのも後の祭り。まあ舌鼓を打っていただいたことは確かだから文句を言うのは失礼だ!

***

じつはこの日、「午後一番に待ち合わせてお昼を一緒に食べよう」 と、北鎌倉駅で降りた。

そもそも旅の目的は運慶にある。(後述)

話の発端は半年ほど前の飲み会の席で、1019日だけ運慶が拝観できるという話を聞いて、その話に乗った。

その日が待ち遠しかった。

後日、「泊りにしようか」 と友人から誘いのメールがあったので、「いいですね。たまにはのんびりとやりましょうか」 と返事をした。かれは健保組合の保養所を手配してくれた。

「じゃあ、前の日は鎌倉のお寺さんをまわりますか!」 ということから北鎌倉での待合せを決めたというわけである。

「お昼は駅の近くの懐石膳でもいかが?」

わたしの目標は駅近くの口悦にあった。

しかし間違えて、一軒手前のすし屋「新とみ」に入ってしまった。一瞬、(ん、ちがう?)とわかったが、間違えました、失礼というのでは本当に失礼なことになってしまうので、(我慢して)ちらし寿司を頼んだ。

意外!といってはなんだが、これが美味しかった。



寿司“新とみ”
右奥にご婦人が見えるが、あちらが“口悦”




“口悦”のメニュー 懐石膳がよかったのに!


3) 東慶寺・秋の花

 昼食を済ますと午後2時、すぐ近くに“駆け込み寺”として知られる東慶寺があったので立ち寄ることにした。

ウイークデイにもかかわらず女性客が三々五々、萱葺きの山門をくぐる。禅宗寺院らしく簡素な佇まいである。

花の寺というべきか、秋の、どちらかといえば少し頼りなげな花々が、参道の両脇に所狭しと咲いている。

入口近くに“秋明菊”が、一体を明るく染めていた。“秋牡丹(ぼたん)”の別名があるように、背丈の高い茎の上に大柄な花をつけて、風にゆれていた。

その隣に純白の“芙蓉”の花。こちらは朝咲いて、夕方にはしぼんでしまう“一日花”、そのはかなさが一日一日を大切に生きる禅の修行者には尊い。

ただ芙蓉は、葉茎も含めた全体を眺めたときに大雑把でまとまりがない。

花弁を紫の斑点でおおう“ホトトギス”、2mはあろうかという背高ノッポの“紫苑(シオン)”も、存在感があった・・・。



ホトトギス

***

東慶寺は正確にいうと、山号は松岡山(しょうこうざん)、寺号は東慶総持禅寺(とうけいそうじぜんじ)。

今から約720年前の弘安8年(1285)に、北条時宗夫人の覚山志道尼が開創した。

34歳の若さで亡くなった時宗(125184)の菩提を弔うために。

この時代の日本は、頼朝の開府以来最悪の環境にあったといってもいいだろう。

要するに大ピンチ!!

直前の弘安4年(1281)に二度目の元寇があって、蒙古が本格的に攻めてきた。その防備に日本は全精力を注いだ。病気がちの時宗はそのせいもあってか、あえなく逝ってしまった。

国力の疲弊に執権の病死、そしてきっと巷にもたくさんの餓死者が出たのではないだろうか。

苦しい時代だった・・・。
 この稿とは関係ないが、鎌倉幕府滅亡(1333年)の遠因はこの時代にあった。

そんな血なまぐさい話は別に語るとして、もう少し東慶寺のことを。


4) 東慶寺の秘仏

女性にとっては暗黒の時代、夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることができない時代が長く続いた。

税金が男にだけかかるという、男性優先の社会である。

東慶寺は近世を通じて関八州に、「縁切寺」としてその名が知られていた。

駆け込めば離縁できる女人救済の寺であり、たとえば今で言うDVや不倫などで悩む多くの女性がこの寺にやってきた。

東慶寺で3年(のち2年)の間修行をすれば離婚が認められる、「縁切寺法」という制度があったのである。

とはいっても具体的には、今の家庭裁判所のようなこと、すなわち両者の言い分を聞き取ってどのように処理するかを決めていたようだ。

明治4年(1871)寺法は廃止となり、尼寺の歴史も明治35年(1902)に幕を閉じたが、どれだけの女性がこの寺に助けられたことだろう。

***

その後の明治38年(1905)に釈宗演禅師が入寺、中興開山となり、新たに禅寺としての歩みを始めている。

近代“東慶寺”の始まりである。

師の高徳を慕って、哲学者や文人・文化人、政財界人たちが多くやってきた。錚々たる有名人たちである。

西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、高見順、小林秀雄・・・・・なかで禅の巨魁といわれた鈴木大拙もその一人であった。

大拙先生はのちに、裏山に「松ヶ岡文庫」を設立、ここが世界に禅文化を広げる拠点となった。

***

もうひとつ。

東慶寺の入口に“漱石碑”が立っていた。なぜ?

漱石(慶応3年生=1867)が神経衰弱に悩み、学友の菅虎雄に勧められて鎌倉に参禅したことはよく知っていたが、それは間違いなく円覚寺の塔頭であったはずだ。このことは小説“門”に再現されている。

ひょっとして釈宗演禅師?

そうか、漱石は28歳の若さで釈宗演禅師に教えを乞うたのだ。

ということであるなら、鈴木大拙をはじめとする著名人はみな漱石の弟・弟子たちである。

たしかに和辻哲郎や安倍能成は漱石塾の門弟であった。そのことはすでに“夏目漱石のこと”で書いた。

***

話題がまた変わる。 
 東慶寺には鎌倉を代表する仏像が現存する。

水月観音”という。水面に映る月を眺めている姿との伝承からその名で親しまれているが、34cmほどの小さな美仏である。

これがこの世のものとは思えない傑作である。物思いに耽るような艶めかしい相貌は、特に女性に人気のようだ。

脚を組み外して、悠然とリラックスしたポーズを遊戯座(ゆげざ)というかたもいらっしゃるようだが、ただ美しい。

「禅宗における観音図を彫刻化した像」 と専門家は評価する。

この仏像はかつて鎌倉国宝館に寄託された時代もあったようだが、今では寺が管理している。拝観するためにはあらかじめ寺に電話予約することが必要だ。
 (tel:0467-22-1663 北鎌倉駅より徒歩4分)


5) 浄土教

松ヶ丘文庫の売店に興味を引く筆があった。

禅寺らしく写経用である。

一筆書いてみた。書きやすい。和紙のしおりとセットで購入。

禅寺と墨書はよく似合う。

松ヶ丘文庫の由来に次の文章があった。興味深い。

<文庫を訪れる人は、まず、東慶寺山門に、俗塵を払い、参道を進むとやや右手に松ヶ岡文庫の標柱に出会う。その脇に、知と心の道に触れようとする人間以外を拒む扉がある。この扉と標柱の上に、毎年野生のツバキが咲くが、松ヶ岡の聖域には、この簡素、一重、赤のツバキこそ実にふさわしい。・・・・・>

椿はなかったが清浄な雰囲気は十分に感ぜられた。ご婦人たちの無駄口以外は・・・。

***

東慶寺を後にしてすぐ、浄智寺への案内があった。

「腹ごなしに、少し山道を歩いてみましょうか」。

浄智寺から葛原岡神社(くずはらおか)までは、多少上り下りはあるが、雨のあとのぬかるみさえなければ革靴でもいける。

「葛原岡から源氏山公園を通って寿福寺まで歩いたらちょうどいい時間になる」

浄智寺も寿福寺も鎌倉五山の一である。

***

ここで鎌倉仏教のことを簡単におさらいしてみましょうか。

まずは法然による浄土教の出現があった。

その教えによれば、

12世紀、世界は最後の堕落の時代にはいり、人間はもはや自力で救済できない。仏陀の化身である阿弥陀にすがる以外、死後に極楽浄土に生まれ変わる道はない。必要なのは、ただ南無阿弥陀仏と唱えることだ。>

と、わかりやすい。さらに阿弥陀の恩寵に報いるためには、人は自らの命を含めたすべてを放棄しなければならない、とした。

なにか、今世界を騒がせている、オサマ・ビン・ラディンさんなど、イスラムのシンプルな教えに似ていなくもない。

法然の貢献は、それまで貴族など上流階級だけであった仏教を一般大衆のものにしたという点で、大きい。

そういえば今年は法然入寂800年で、京都の知恩院では「大遠忌」が催されるようだ。また、最近は流行となった仏具や仏画、仏像などの展示が上野の美術館で予定されてもいる。



浄智寺の秋


6) 禅宗と武士と谷戸

前時代の平安仏教は、学問的能力を必要とした“顕教”にしても、きびしい修行と超人的能力を求めた“密教”にしても、貴族仏教としての性格をもっていた。

これに対して鎌倉新仏教は、あらたに台頭してきた武士階級(特に臨済宗・曹洞宗)や一般庶民(浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗)に広がっていった。

***

前述の浄土教とは違うもうひとつで、鎌倉を代表するのが、浄智寺や寿福寺の禅宗(臨済宗)である。

元来武士階級のあいだで力を得たのだが、それには理由がある。

禅宗では、信者が生涯の一瞬もおろそかにせず、自ら修行と瞑想に捧げることが求められた。

曹洞宗の道元は「一瞬のうちに悟りを開くことは必ずしも重要ではない。座禅さえ組めば、人間が持つ仏性を徐々に、やがて完全に理解することができる」 とした。

禅宗が主張する自力本願の教義は、浄土宗の他力本願と両極端をなす。

自力、すなわち自らの武力で政権を奪取した武士にとって、禅宗はもってこいの宗教だった。頼朝をはじめとした鎌倉武士たちは競って禅宗、とくに臨済宗に帰依し、多くの寺院を建立した。

京都五山も鎌倉五山も、その“結果”なのである。

***

緩やかな山道といっても、10分も歩くとうっすらと汗をかいた。

3時を過ぎると木々の陰が濃くなって、夕暮れが近いことを感じさせる。

歩きながら禅寺のことを考えている。

禅宗は多くの文化財をのこしてくれた。

枯淡の寺院、救済のための偶像である仏像、死後の世界を象徴する、あるいは瞑想をうながす庭園、侘び寂びの空間・茶の湯・・・・・

***

鎌倉は切通しの都である。谷戸(やと)ともいう。そもそも道が狭い。

その谷戸にはかならず武士たちの建てた寺がある。

ほとんどが柔らかな鎌倉石の切通しであるから穴を掘るには大して手間がかからない。武士たちは谷戸の石をくりぬいて馬小屋にした。鎌倉ではこれを“やぐら”と呼んだ。

じめじめした馬小屋は、今は子どもたちの遊び場か“墓”になっている。

以前わたしは、「そこには成仏できない死者の霊がうごめいている」と書いたが、暗いその“やぐら”の中に入るのはためらわれる。

扇ガ谷戸にある寿福寺は頼朝が亡くなった翌年、政子が栄西を開山として招いて建立した禅寺である。


7) 寿福寺、そして白隠禅師



寿福寺本堂脇の
年輪を重ねた柏槙(びゃくしん)

寿福寺は鎌倉五山第三位という、寺格の高い禅寺である。

この地には鎌倉幕府開闢以前、頼朝たちの父・義朝の館があり、その菩提を弔うお堂があった。

開山の栄西は臨済宗を日本に伝えた禅僧で、『喫茶養生記』を著して茶を飲む習慣をもたらした。

茶の湯と臨済宗との結びつきはこのあたりから始まったのだろうか。

***

裏山が墓地になっていて多くの“やぐら”が見られる。

もうここは観光地になっているのか、夕暮れが間近なのに人が絶えない。

最奥のやぐらに“実朝とその母・政子”の五輪塔があった・・・。

ここには、子規の後継者の高浜虚子、鎌倉文士の親分・大仏次郎も静かに眠っている。

***

さてまた退屈な話だが、臨済宗の鎌倉以降を追っていくと江戸中期の高僧「白隠」にたどりつく。

少し前に、NHKBSほかで白隠のことをしばしば放映していたので、記憶されている方も多いかと思う。

白隠は沼津市・原(東海道に駅がある)にあった長沢家の三男として生まれた。

15歳で出家して諸国を行脚、難行苦行を重ねて後、信濃・飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。

特筆すべきは、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったことだろう。

以後は地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、現在では臨在宗中興の祖と讃えられている。

「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、かれの著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。

そういえばわが故郷には臨済宗寺院が目立つ。

我が家の菩提寺も臨済宗で、家康以前からの寺であったようだから、その時代に宗旨を変えたのかもしれない。

***

白隠といえば、禅の教えを多くの墨絵や墨書に残している。享保4年(1719)の「達磨図」はとくに有名で、巧みな画法を駆使している。

その達磨図には「直指人心(じきしにんしん) 見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」 と書かれている。

しかし晩年はその作風もだいぶ変わったようだ。技巧より心で描いた。

苦労の積み重ねによってそのあたりがよく見えてきたのだろうか、・・・・・おっと、軽薄な評価は止めておきましょう。

白隠の書画は収集家にとって垂涎の的である。

熊本の細川護立氏が白隠を愛でてコレクとしたことはよく知られ、多くは永青文庫に収蔵されている。



白隠の円相

円は丸くて角がなく、終わりも始まりもない


8) 永遠の美女 原節子

鎌倉でいつも思い出すのは原節子と小津安二郎のことだ。

しばし、テレビやインターネットのなかった時代に思いを馳せていただきたい。

きっと今に比べて情報量は1100ほどもなかったのではないだろうか。地方の田舎によっては一部の人を除いて、新聞も来ない、ラジオもない、まったく情報と隔絶された社会もあった・・・。

そんな時代、娯楽の王様は映画しかなく、娯楽の街・浅草がキラキラと輝いていた。

映画に出演できる人は一握りの特別な人、まさしく銀幕の“スター”であった。

なかでも原節子はもっとも脚光を浴びた女優の一人・・・。

***

原節子は大正9年(1920)横浜の保土ヶ谷で誕生、本名は会田昌江といった。横浜高女に通ってしばらくしてから、その美貌を買われて映画界入りした。145歳の多感な年頃だが、世間が羨むほどの幸運に恵まれていた。

しかしながら、自身は<とにかく色は黒いし、やせているし、とうていモノになるという感じの子ではなかった>と書いている・・・。

性格的には内気で人を押しのけてでも自分を前に押し出すタイプではない。この時代は、しとやかさが女性の美徳でもあったのだから、それは仕方のないことだろう。

それでも、もともともっていた芯の強さと厳しい映画界でもまれることで、彼女は成長していく。

***

原の出世作は日独合作映画の“新しき土”だ。

昭和15年の封切と聞けば、時代は帝国日本もヒットラーのドイツも、ともにナショナリズムがこれ以上ないほど高揚していた時期である。第二次世界大戦の枢軸国が肩を組んだというわけ。

“新しき土”は言葉どおり満州建国のことで、一方ドイツでは“さむらいの娘”のタイトルで放映され、大衆操作のプロパガンダとして利用された。

原はそのご褒美としてドイツに招かれ、フランス・巴里に滞在し、アメリカを廻って帰国している。

帰国後の原に対する評価は散々で、「大根!大根!」とこき下ろされた。

この世界は、美貌と幸運だけでは生き残れない。自身も納得する“大根”という評価は当然であった。

***

原にとって、昭和24年(1949)の小津安二郎との出会いが、大きな転機となったことは多くの映画人が指摘することである。

小津が原を上手に使って、原の良い部分を最大限引き出した。

小津作品には欠かせない男優・笠智衆が次のように語っている。

「東宝作品に出とられたときはそれほど思いませんでしたが、小津作品では上手かった。きっと小津先生と波長が合ったのでしょう。原さんも僕と同じように、先生に育てられた俳優の一人です。
 
普段はおっとりして、気取らない方でした。美人に似合わずザックバランなところもありました」。

もうすこし永遠の美女・原節子と小津安二郎のことを続けたいが・・・。


9) 原節子と小津安二郎

映画界に名だたる監督たちが原節子を撮っている。

山中貞夫、内田吐夢、伊丹万作、山本薩夫、豊田四郎、今井正・・・世界の黒澤もその一人だが、小津との作品だけはひときわ違った光彩を放っている。

二人が撮った作品を順番に追うと、『晩春 194929才』、『麦秋 1951』、『東京物語 1953』、『東京暮色 1957』、『秋日和 1960』、『小早川家の秋 196141才』、原が29歳から41歳までの12年間で、たったの6作品だけである。

彼女は43歳で引退しているから、普通なら女優としてこれからが充実する年代に入るのだが、この時代は違っていた・・・。

***

映画ファンならこんな台詞も頭に入っているのではないか。

「いいえ、あたくし、そんな、おっしゃるほどのいい人間じゃありません。お父さまにまでそんな風に思って頂いたら、あたしの方こそ却って心苦しくって・・・」

(周吉「いやぁ、そんなこたない))

「いいえ、そうなんです。あたくしずるいんです。お父さまやお母さまが思ってらっしゃるほど、そういつもいつも昌二さんのことばっかり考えてるわけじゃありません」

『東京物語』で原が扮する紀子が、尾道での葬式が終わり、義理の父(笠智衆)と話す台詞だ。

なにか33歳の原のリアルな心情を吐露しているようにも聞こえる。

こういう形で素直な原をスクリーンに見せる小津が、やはりすばらしいと思うのだ。



『東京物語』の笠智衆、原、東山千栄子
カメラ位置が低い!

海・山・寺院・蒸気機関車
高度経済成長の前の古き良き日本が観られます

理由はともかく原節子は引退し、会田昌江にもどった。

小津は、原との最後の作品『小早川家の秋』を撮った2年後の19631212日、頸部癌で亡くなった。北鎌倉の浄智寺そばの小津家で行われた通夜に、原も出向いている。

「鎌倉のお宅での通夜の晩だって、ぼくら小津組のスタッフは、仕事をかたづけてから小さな部屋にこもってワイワイ盛り上がっていたんです。誰も涙を流してしんみりした奴なんかいない。

ところが原さんが来られたというんで、玄関に迎えに出て、入ってこられる原さんの顔見たとたんに急に涙があふれてきて、自然と抱き合って泣き出してしまった。しゃくりあげて、こらえきれなくなったんです」 (『小津安二郎物語』)

***

引退後の会田昌江はマスコミの前に出ることを、一切拒んだ。

あたかもグレタ・ガルボのように。

それでも鎌倉は金沢街道沿いの浄明寺の境内の、地続きになった場所に住んでいたことだけはわかっている。浄明寺も臨済宗寺院で鎌倉五山の第五位に位置する。

今元気であれば彼女は92歳という高齢だ。

結婚もせず、子どもも作らず、ここまで生きて振り返ったとき、幸せだったのかそうではなかったのか・・・・・いや、これは愚問だ。

彼女は生きたいように生きて、引退して、鎌倉の街に姿を消した。それだけでいいじゃないですか!!


10) 禅宗の食事〜秩父・太陽寺



“行粥(ぎょうしゅく)”とは朝食のこと

鎌倉は禅宗寺院が多い。かれらの食事は、精神のもちかたといっしょで、基本的に質素素朴だ。

食事においても余計な装飾はいっさい切り捨てる。じゃあ、どんな食事をするのだろうか。

***

曹洞宗で言う“行粥(ぎょうしゅく)”とは朝食のこと。

禅寺では朝食は粥、そして沢庵(香菜)とゴマ塩だけの質素な食事だ。

昼食は麦飯と味噌汁、沢庵、煮物である。いってみればこれが正餐である。

中国の禅寺ではかつて、朝と昼の二食が原則であり、夜は温めた石を腹部にあて、飢えを凌いだといわれている。これを“薬石”と呼び、その呼び名が禅寺での夕食の通称となった。

現代の日本では一日二食などといえば虐待になってしまうから、夕食もきちんといただく。その薬石は粥、味噌汁、煮物だ。

いかにも質素であり、飽食の現代人にはとても受容できないと思うのだが・・・・・。

***

これでは病気になってしまう・・・?

しかし、現代の僧侶たちは精神力でカバーしなければならない。

カロリーは11500キロカロリー。

はじめ23日で脚気になった感じになるが、“精進料理”をずっと食べていると、体がその料理に慣れてくるからなんとも感じない、とか、常人では何日耐えられることか!

***

最近、秩父のある禅寺に、週末を修行三昧に過ごす若い女性が増えているという。

寺の名を“太陽寺”といった。それでは何故ここを訪問する女性が増えたのか?

女性が大学を卒業して社会の重要な役割を担う時代、ストレスが彼女たちの心身を侵すというのは当然の成り行きだ。

テレビのバラエティ番組を見て笑って、いっときの憩いを得たり、最新のファッションに身を包んで街を闊歩したり、というのもストレス解消のひとつの方法だろうが、それだけではなんとなく中途半端。やはり精神を満足させてくれる何かが欲しい。

そんな彼女たちが禅寺に救いを求めた。

太陽寺に滞在して座禅を組み写経するという行為は、きわめて興味深い、非日常のイベントなのだ。

<宿坊である江戸時代に建てられた本殿の周囲には民家がまったくなく、携帯電話も圏外。聞こえてくるのは清流の音と小鳥の鳴き声。大自然の恵みを満喫できる露天風呂から見上げるのは満点の星空・・・>

精神の安定を得るだけでなく、ファッション雑誌以上の格好良さもある。

食事はもちろんさっぱりとした精進料理だが、フレンチやイタリアンにワインと、飽食に馴らされた彼女たちの口に禅味は合うだろうか。

 「太陽寺」にリンク



太陽寺の夕食
精進料理だがこれだけあれば十分!

さて、禅の先達たちはみな同じようなことを言っている。

「食材は丁寧に真心をもって取り扱わなければなりません。生ものも、火を加えて調理したものも、常にこの心がけを忘れてはいけません。米、野菜、肉にしろ、他のものの命に感謝して大切にしなければいけません」

日常的に忘れている“感謝”ということばが新鮮に聞こえる・・・。

 (つづく 「その2」へ


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