鎌倉から三浦半島にかけての武士の消長の話である。
三浦氏は、平安時代後期に三浦半島で成長した桓武平氏の末である。源氏の旧恩を重んじ、頼朝挙兵以来、源氏のために働いた。
とくに三浦大介義明は頼朝初戦の大敗を支え、命に代えて頼朝を東京湾に逃した。
後にその貢献によって、「一門の大名、諸国の受領93人、門様百司すでに五百余人」 といわれるほどに栄えた。
北条氏と並びつつも、その存在はあまり政治的ではなく、一門の風は質朴だった。
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伊豆から出てきた北条氏が三浦氏について思ったことは、「かれらには地の利がある。鎌倉は三浦半島と地続きで、半島にあるだけに海戦にも長けている。頼朝にも信頼されて、将来大きな敵になる・・・」 ということだろう。
三浦党の中で目立つ存在は和田義盛であった。
義盛は、今は亡き総氏・三浦大介義明の孫にあたるが、鎌倉幕府では重要な役回り、侍所別当(今でいえば防衛大臣というところか)として活躍した。
勇猛果敢であったが、知略において北条義時(初代・時政の嫡子で、政子の弟=二代執権)に劣っていた。
北条義時は頼朝があっけなく逝ってしまった後、表面上は合議制を敷いたが、その権謀術数によって自身の政権奪取に着手する。もちろん政子の加勢もあった!
そして競争相手を次々と滅ぼしていく。
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まずは歴史上非常に評判の悪い梶原景時・・・義経を讒言によって追い落とした人物である。梶原は弾劾状によって鎌倉を去る途中、駿河国で討ち取られた。
次は、人柄の良さで関東武士団から敬愛されていた畠山重忠。かれは謀反の罪で、現在の相模鉄道・二俣川のあたりで討たれた。
この争いに和田義盛も加担していたが、その8年後、自身も討伐されることになる。
かれは北条陣営に挑発されつづけ、堪忍袋の緒を切った。
建暦3年(1213)5月2日のこと、“和田の合戦”として歴史に残るが、早朝から始まる市街戦だった。義盛は一族の宗家・三浦義村を誘ったが、最終的に断られて離反、2日間の壮絶な戦いの後戦死した。 (「三浦党と北条氏」の詳細はこちら)
和田義盛が戦死した由比ガ浜
江ノ電に「和田塚」の駅名があるのはその名残
葉山での夜が明けて、その和田義盛と関係のある寺に、バスに乗って向かっている・・・。
その場所は横須賀市芦名にあり、寺の名前を“浄楽寺”という。
ここに重要文化財に指定されている“仏像”があった。
10月19日は浄楽寺(じょうらくじ)秘像仏の、年に2回の一般公開日。
御開帳の時間を確認していなかったのと、バスの乗換えがあったため早めに葉山の宿を出た。葉山御用邸正門の前で一旦下りて、ここで逗子発「長井行き」に乗り換えた。
バスは海沿いの道を順調に走る。車窓の向こうに白壁やオレンジ色の南国風マンションやリゾート風の邸宅が通り過ぎる。しばらく走って午前9時半、その停留所「浄楽寺」に着いたが、思っていたほどの距離もなく早く着きすぎてしまった。
「今日は凄い人で賑わうだろうね!」 と同行者のひとこと。
しかし思いに反して拝観者らしい人の姿が見えない。
バス停でかしましく話し込んでいたご婦人方が、「あちらですよ!」と教えてくれた。
寺の檀家の皆さんがあわただしく準備に走り回っている。
『国指定重要文化財』を公開するという緊張感はなく、普段の田舎寺院ののんびりした雰囲気のままだ。これがいい。
まだ時間がありそうなので奥の寺域(墓地)に足を延ばした。
『郵便の父 前島密』の石像が、海を見下ろす丘の上に立っていた。
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鎌倉初期の仏像文化を支えたのは運慶を中心とした慶派仏師だった。
運慶作は全国に噂は多いが真作は少なく、約30点が本物と確認されている。
鎌倉文化圏、横須賀の浄楽寺の本尊・阿弥陀三尊像は、運慶の真作だ。
東国では伊豆韮山の願成就院(がんじょうじゅいん)と、ここ浄楽寺の二寺にのみ真作が証明されている。(2009年、横浜・称名寺光明院の大威徳明王坐像も運慶作が判明)
したがって鎌倉市内には、一体も残っていない。
北条氏の『吾妻鏡』には、運慶が実朝や北条義時(二代)、政子のために造仏したという記録はあるものの、現存していないということだ。 なぜ?
その大きな理由は、鎌倉御家人の一・安達泰盛一族が北条氏によって滅亡された霜月騒動(弘安8年=1285)にある。それ以前に建立された寺のほとんどが消失しあるいは廃絶されてしまったのだ。
それ以前にも北条氏による血の粛清があったのだから、しかたのないことなのかもしれない。
バス停横の青空一
普段は土曜日のみ開くとか、みなさんお元気でした!
それにくらべてここ浄楽寺には、歴史の運が上手に避難させてくれたのだろうか、運慶の大規模造像が残った。
昭和34年に不動明王と毘沙門天の像内から運慶の銘札が発見されて、文治5年(1189=鎌倉幕府開闢直前)運慶作ということが判明した。
銘札には、「大願主平義盛芳縁小野氏」、「大仏師興福寺内相応院勾当運慶小仏師十人」 とあった。これにより、運慶が和田義盛とその妻・小野氏のために造立したことが判明した。
銘札が発見される以前、この仏像は頼朝が創建した寺のひとつで、鎌倉騒動の中で消滅した勝長寿院から運び込まれた、とされていた。
しかしそれは後世の作文で、頼朝が父義朝の菩提寺として立てた勝長寿院の本尊は、運慶にとって師匠筋にあたる奈良仏師の棟梁・成朝が作ったという確かな記録があるのだ。
真実は・・・浄楽寺の施主である和田義盛(鎌倉の御家人で三浦一族の一人)が、主君である頼朝の勝長寿院本尊を真似て、運慶に造らせた・・・。
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寺の準備が整った。
重要文化財三体は本堂裏の収蔵館に収められている。3番目に記帳して階段を上った。
わたしたちがこういう文化財に接する機会は少ないが、たいていは温度・湿度がきちんと管理された美術館において、である。したがって、こういったあっけらかんとした場所でのご対面には違和感があったが、よく考えてみればこれが普通なのだ。
仏像は、800年という歳月を半島の海辺の寺で過ごしてきた。そして村人たちの誇りとなり、愛されてきたのである。
浄楽寺の阿弥陀三尊像 運慶1189年作
阿弥陀如来は“無量寿如来”とも呼ばれ、すべての人に極楽往生を約束する
ボディ(ハンド)ランゲージにも意味がある
右手は施無畏印・・・畏れのないことを施す
左手は与願印・・・人々の願いを聞き入れる
ご対面させていただく。
それぞれが正面を向いて並んでいる。“阿弥陀三尊像”は真中に阿弥陀如来、左右に脇侍(右に観音菩薩、左に勢至菩薩)をしたがえている。その外側に天部(毘沙門天)、明王(不動明王)が三尊を護衛するかのようにカッと目を見開いて睨みをきかせている。
じっくり観させてもらうが、如来も菩薩もお顔がよく似ていらっしゃる。
ふくよかで、あまねく世の人々を救済してくれるかのように、中天を見つめている。
これにくらべて天部と明王は厳しい相貌をしていらっしゃる。頬が強く張り、体躯は堂々として、流動する衣文にその特徴が現れている。
専門家たちは運慶30代の頃の作品と断定した。
運慶が造仏した時代は鎌倉幕府が開かれたばかりのころで、戦乱は収まったものの、世の中は落ち着いていない。
頼朝やその幕僚たちは、源平盛衰の戦で亡くなった兵士たちの菩提を弔うために、多くの寺を建立・開山した。なかに寺や檀家たちを慰めるため、あるいは世の平安を願うために仏像を安置した。この寺もそんなひとつなのだろうか。
それにしても火事の国日本で、木像仏像がよく残っていた。ありがたい。
毘沙門天 & 不動明王
運慶の真作と認定された像は極めて少ない。
奈良円成寺大日如来坐像(国宝1176年)
静岡願成就院(がんじょうじいん)阿弥陀如来坐像(重文1186年)ここも観てきました。
神奈川浄楽寺(じょうらくじ)阿弥陀三尊(重文1189年)
奈良東大寺南大門金剛力士像(国宝1203年)
奈良興福寺北円堂弥勒仏坐像(国宝1212年)
同・無著菩薩・世親菩薩立像(国宝1212年)
神奈川称名寺大威徳明王像(重文1216年)
以上七箇所、これ以外の六点は「推定される」とされている。
浄楽寺は浄土宗の寺であった・・・
浄土宗といえば阿弥陀信仰。
ひとは死して天国にいく。そこには阿弥陀が待ち受けて、導いてくれる。
しかしてその弥陀の本質は何かといえば、母性、母の滋養や柔和さ、男をしてあこがれさせる母性、人間の本性だ。
しかしながら母性は、子供を誕生させて初めて、その本質が発揮される。そういうものだ。したがって、子供を産まなければ、その女性には母性はないものと考える。せっかく母性を備えて生まれたのに、その本質を目覚めさせないのはもったいない、弥陀を冒涜することになる、と考えねばならない。
浄土信仰、弥陀信仰とはそういうものだろう・・・。現代人はそういうものとは縁が遠くなった・・・。
いまさら言うまでもないが、運慶(生年不詳〜1223)は東大寺や興福寺(藤原氏)の復興に加わり、南都奈良を中心に多くの仏像を物した仏師。もっとも有名な作品は快慶らとともに造仏した東大寺南大門の金剛力士像だろう。
フェノロサは「日本人にとって運慶と湛慶は、欧米におけるミケランジェロ(1475〜1564)に似た存在である」といった。
運慶は単に、明治以降にやってきた欧米人にのみ評価された仏師ではなかった。
中世の有力文化人や為政者と交流を結び、彼らの求めに応じて多くの優れた仏像を造ってきた。その裏には運慶の能力を評価した人たちによる信頼があった。
今で言えば東京スカイツリーを建てている技術集団に似ている。
高度な技量や知恵を持った技術集団、その頭領が運慶であった。
運慶工房が生み出した彫刻にはスケールの大きさが感じられる。それは運慶の人間性と強い個性があったればこそ、といえるのではないか。
東大寺南大門・金剛力士像 “阿形像”
運慶、快慶により造仏
“吽形(うんぎょう)像”
定覚と湛慶による
浄楽寺の造仏より12年後の仕事、逞しく、厳しい姿がある
運慶の父は興福寺の仏師康慶、その父の下で仏師教育を受けた。
奈良円成寺の大日如来像の台座には、「大仏師康慶実弟子運慶」という墨書があり、運慶の作風に触れる最初のものである。
大日如来の傑作としてよく知られ、前時代の雰囲気を残しながら新しい技法や様式が見られる。才能の芽というやつだろうか。
運慶は興福寺で“勾当(こうとう=下級の役職)”として仏師の活動をしていた。
その興福寺が、平重衡(清盛の五男)の焼き討ちにあって消失する。これは平氏政権に対して南都奈良が反抗的な態度をとっていたために起きた事件で“治承・寿永の乱”と呼ばれる。
運慶の平家に対する印象は悪い。
やがて平家が倒れ、東国武士の時代が来ると、運慶は鎌倉に接近する・・・。
1186年、運慶は北条時政のために阿弥陀如来、毘沙門天、不動明王を造立した。
その作風は平安の貴族趣味から離れ、武士の無骨さを前面に押し出すという、時代を反映したものだった。
そして3年後、浄楽寺の像が制作された。
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“阿吽の呼吸”ということばには心の通じ合いを示す、よい意味がある。
“あ”は最初のことば、“ん”は最後のことば。“阿”は口を開き、“吽”は口を閉じて、声を発する。
教科書に載っていて、少年少女で知らないものはない(おじさん・おばさんたちは忘れてしまった?)東大寺南大門の仁王像は“阿形像”と“吽形像”との二体で構成されている。金剛力士像のことである。
1988年に始まった大修理で像の作者が明確になった。
“吽形(うんぎょう)像”の中からは大仏師定覚と湛慶、小仏師12人を記した経巻が見つかり、“阿形像”には大仏師運慶、快慶の名と小仏師13人である旨が記されていた。
そしてすべての仕事を統括する大プロデューサーは運慶だったと、専門家は推定している。
運慶は当時、奈良の仏師を統率する立場にあった・・・すさまじい形相のこの像は1203年の作品である。
浄楽寺から、「さあ、これからどうしようか。どこかアテはある?」
「鎌倉にもどるのも芸がない、車があるわけでもないし・・・半島の突端、三崎まで行ってマグロでも食べようか」、で話は決まったが、バスが出ているのだろうか。
そんな話を漏れ聞いた浄楽寺の檀家さんが、親切にも教えてくれた。
なんと奥からペンと紙を持ち出してきて、「こうやって行けばいい」 と。
***
・・・・・乗り継いだバスは三崎港を通り過ぎて城ヶ島に着いたが、風が強く、今にも雨が降り出しそうで、寒い。
(城ヶ島なんて数十年ぶりだろうか、雨が降ったらひばりの“城ヶ島の雨”か、それならそれでいいや!)と思いながら、広いバス停に降り立った。
バス停に一人ポツンと若いお兄さんが立っている。
客引きの類に見えた。わたしは三崎港にもどって“マグロ”をいただきたいから、このお兄さんとは関わりたくなかった。
しかし敵もさるもの、巧みにことばを操って客を誘導しようとする。経験豊かで頭も廻る。
うん、こいつはなかなかの曲者だ!
会話の果てに、かれの人間性にほだされてその店で昼食をとることに決めた。
「よし、もうここでドボンしてしまおう!」
え、ドボンって何を意味するかって?
ハイ、要するに、遅い昼食をここでとりますが、あとのことは考えないで気持ちよくイッパイやりましょうや、ということ。
このお兄さんは仕事熱心で愛想もいい。
「仲間がいて、かれはシラス専門でやっているのですが、わたしはわたしで毎朝船を出して“刺し網漁”をしています。で、獲れた魚もシラスも、毎日この店で調理していますから新鮮ですよ!・・・マグロだけはその日の分だけを三崎から仕入れてきます」。
シラスは鎌倉の腰越が有名だが、「漁場も猟期も厳密に規定されています。ここでも漁場があって鑑札を持っている漁師以外は参加できないようになっています」 ということ。
話の筋が明快でわかりやすい。
要するにこの店では、朝獲れた鮮度の高い魚を出してくれるということ。
では、いただこうじゃないか、と酒が入ったから例によって気が大きくなる。
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あちらの席に四人連れが見えた。
老夫婦と見える方に、大学生ぐらいの若いお嬢さんがお二人、寄り添って食事を楽しんでいらっしゃる。
お嬢さんがあまりにも闊達で気持ちがいいので、声をかけてしまった。
「すごくいい雰囲気にみえますが、今日はお爺ちゃん、お婆ちゃん孝行ですか?」
「ええ、学校の期末試験が終わって時間ができたものですから・・・藤沢の田舎から来ました」。
「明るくていいお嬢さんですね」。
このことばに嘘偽りはなかった。
横から見ていて、羨ましくなるような光景がそこにあったのだ。
***
帰り道、買う気もなく土産屋に立ち寄った。そこで気持ちのよさそうなオバサンが、「まあ、遠慮しないで食べていきなさいよ」 と、イカの半干しの焼きたてを出してくれた。
遠慮するのも悪いので、待ち時間をオバサンとの会話で潰すことに。
「ねえ、小母ちゃん、『鶴は千年、亀は万年、三浦大介百六つ』ってことばを知っていますか」
意地の悪い質問だ。しかし、「ええ、わたしは知ってるわよ。でもいまの若い人たちはほとんど知らないんじゃないの?」
「学校で教えないのでしょうね。郷土の誇りだと思うのですが・・・」
帰りの京浜急行の快適な特急の中で、よい気持ちになって、またしても三浦半島と三浦氏のことを考えていた。
(おわり 2011年11月7日)
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