<尾 瀬>![]() 日光の山々から眺めると、その姿かたちがきわめて秀麗である。 その山脈は東北に走って7千余尺の会津駒ケ岳を起こし、南は上毛の至仏山と対峙する。至仏は西南に伸びて笠科山を隆起させ、さらに西南武尊(ほたか)、迦葉(かしょう)の連脈に連なっている。 南北に燧、至仏の二つの山が相対峙する間に平野がある。その東西もまた、山をもって隔てられ、山間のくぼ地をなしている。水は四囲の山塊から流れ下って、一つの湖を形成した。これを尾瀬沼という。貯水は燧、荒沢両岳の間を突いて大滝となって落ち、流れて大滝川となり、さらに北進し只見川となる。 この沼辺一帯を尾瀬と呼ぶ。 |
<分水嶺>尾瀬は南北分水の背となっていて、北流するものには只見川の東、燧ケ岳を隔てて伊南川がある。両河川は只見まで北上して合する。さらに猪苗代湖から発する日橋川、鶴沼川の下流・大川とも合流し阿賀川となり、西北に流れ越後を貫いて、信濃川と並んで日本海に注ぐ。南は至仏、笠科の連山が二つの流れを作る。西は大利根の源流で、東には片品川。片品川は南流すること10余里で根利川と合流し利根川に落ちる。坂東太郎の長い流れは流域の河川をまとめ、蜿蜒(うねうねと)関東平野の中央を走って太平洋に注ぐ。利根川、阿賀野川がともに日本屈指の大河であることはいうまでもないが、尾瀬はその発源地であり分水界となる場所なのである。 ・・・・・・ |
<案内人の調達>・・・・・夜となって人夫二人が、主人の奔走の効果があってやって来た。一人は猟師で、この辺りの山なら知らないところはないという者。もう一人は越後の人間で何の職業かわからないが、欲の深いことだけは確かな人間。 わたしは「尾瀬に草採り(植物採集)に行きたいのだが、帰りは栗山を越えて日光に出たいと思う。一晩は燧ケ岳山麓の堂に泊まり、次の夜は川俣(温泉)の宿に、三日目は湯元にもどる予定をたてているが、どうだろうか。」と尋ねると、「草を採ろうとするなら尾瀬ヶ原がいい。そこから燧ケ岳の麓を巡って沼山峠に出て、さらに山を越えて栗山に出たらいい。だけど、たいへんな悪路だから、その覚悟はしておかないといけない」という返事。 わたしたちは「道の険悪なのは恐れないから、花が多いところに連れて行ってくれ。」とお願いした。 「それで日当はいくらぐらいか?」と尋ねると、「一人につき一日2円で、日光から帰る日数も加えて8円ずつ欲しい。」という。 法外に高いけれど、こういうときだから止むを得ないと了解し、翌朝5時出発と決めると、彼らは帰って行った。 |
<道なき道を・・・・・>・・・・・8日、4時半に起床した。西風がおもむろに雲を動かし、朝日の輝きがわたしたちの頭上を越えて背後の山を照らした。朝食をいただいて身支度が終わるとやがて人夫がやって来た。軽くない荷物が彼らの背に負われた。 6時、戸倉をいよいよ出発。宿の人々が総出で送ってくれ、「無事に着きますよう、さようなら。」のことばを残して別れた。 わたしたちは早く尾瀬ヶ原に出ようとして県道を上らず、戸倉よりまっすぐ西に向かい、畑の間を縫っていくと、ある崖の端に出た。下には片品川の渓谷が白く泡立っているのが見えた。朝露に濡れた草の間を分けて、滑りそうになる道を川辺に降り立った。 ![]() しばらくして向こう岸に渡るとハギ、ススキ、ワラビ、ギボウシなどが生えている草原に出た。ここは笠科山の続きでカラマツなども静かに並んで立っている。川に沿って北上しアテ坂という坂を上り、間もなく樹林にはいった。木の種類は主にトチノキ、ミズナラ、オオカメノキ、リョウブ、モミジなどで、これにハリギリ、ツノハシバミ、コバノトネリコ、ムラサキツリバナが交じり、それらの枝葉は天を覆い、その下に好陰性の植物がおびただしく繁茂している。 右には片品川の源流が滔々と流れ、水は岩に砕けて雪のように散り、凝っては藍を湛える。朽木の倒れているのを踏み越え、苔むした岩に足をとられながら密生するネマガリダケの間を分け入って進むと、また、徒渉せざるを得ない場所に出た。こんなことを4−5回くりかえし2里も進んだころ、左岸にあがりブナ、ミズナラの疎林にはいって上り詰めると大樹の下に山上の小さな祠があった。 この辺りの眺望はよく、平らな山の背を進む。右手に針葉樹が茂る山塊が見える。遠くは沼山峠の続きだろうか。 左は登ってきた片品川の源流を隔て、笠科山を望む。残雪がまばらに残り、堤防のように横たわっているが、笠科山は7千余尺、富士山の形をして立つ。姿が笠に似ているためにこの名がついたようだが、別名を笠ケ岳とも呼ぶ。 片品川はこの山から出ているため、昔は笠科川といっていたが、なまって片品川になったのではなかろうか。片品川は20万分の1地図上では戸倉の南で二分し、西の川は細く、東は大きく書かれている。わたしたちが上ってきたのは西側で「こちらが本流」と案内は言った。 片品川の下流に沿った戸倉、土出、越本、東小川などがすべて片品村にまとめられ、一つの字となった。 |
<ハトマチ峠>これより山の中腹の泥濘を進み、小流を越えると峠の頂上に出た。やや平坦でネマガリダケが繁茂し、白樺、キハダ、ブナ、ナナカマド、アオタゴ、ノリウツギなどがまばらに生えている。東は小さな岡があり、そこから県道の方に下るようだ。西は少しずつ高くなって至仏山に連なる。時間は11時30分。草の上にゴザを敷いて座り、弁当を開いた。こんなところにも蝿はとんでいるが、水は数町南に下らないと汲めない。峠の名を「ハトマチ峠」といい、戸倉から3里だという。 12時、身支度して北に下る。 この辺りにはネマガリダケ(チシマザサ)が叢生しているが、いずれも巨大で、自分たちの背丈を越えるほど。その陰には羊歯類などの陰草があった。
|
<山の鼻>右は山、左は渓谷でこれを隔てて至仏山を望む。ネマガリダケの間にはツガの巨木が立って、それにオオカメノキ、ネコシデなどの落葉広葉樹が交じっている。 1里ばかり下ると、平地に出た。同じようにネマガリダケの間を分け入って進むと、渓流に出会った。先ほど左に見えた谷より流れ出た川で、尾瀬ヶ原に注ぎ、やがて只見川となるという。浅瀬を渡って左岸に上った。 「山の鼻」といって至仏山の下に位置し、尾瀬ヶ原の入口に当る。笹の葉などを編んで作った小屋がある。ワラビ採りの人が建てたという。中には食器などが散らかっているが、外には竈(かまど)もある。主(あるじ)は仕事なのか外出中で見えない。 ここで半時ばかり休ませてもらい、いよいよ目的の尾瀬ヶ原に向かった。 |
<いよいよ尾瀬ヶ原に入る>![]() 落葉樹が静かに立っている。名前も知らない草の生繁る原を進むこと1−2町で尾瀬ヶ原の一部が目の前に現れ出た。(原文=今我が眼の前に展開されたり)ミズゴケのじくじくと湿ったところにコミヤマリンドウ(タテヤマリンドウ)が紫の唇をほころばせ、天を仰いで笑みをもらす。この世のものとも思われない。 |
<燧ケ岳巍然>![]() ミズゴケを山師たちが踏みつけた跡をたよりに進むと、小さな流れがあった。それを越えて3−4尺に余る草の間を踏み分けていくと、行く手に、燧ケ岳が巍然として雲の表に聳えている姿が見えた。 一望して、その裾まですべてがミズゴケの原で、その間に川があり、湖があり、沼があり、林がある。これぞまさに尾瀬ヶ原であり、紅白紫黄色の花がすき間もなく咲き続き、中には北海道以外に見られない花もある。 |
<下田代から沼尻へ>![]() 小さな流れもいくつかあって、どれも渡らなければいけないのだが、腰までつかる深みもある。なん箇所かの林も通過し、原っぱにはハッチョウトンボが多い。 こうしてやっと尾瀬沼の下流となる只見川源流に達した。 幅数間、深さ数尋、泳ぎに慣れないわたしたちは非常な困難にぶつかり心配したが、幸いにも流木が自然に流れ集まって柵のようになっているところがあり、その上を渡って辛くも向こう岸にたどり着いた。 地図によればここから岩代の国となり、南会津郡に足を踏み入れたことになる。ふたたび原っぱが広がっているが、今までより大きくなく、これまで遠くに見えていた燧ケ岳も今は目の前に屹立している。沼尻までは、もうそんなに遠くない。 ![]() 今まではずっとミズゴケの中を歩いてきたが、2−3丁進んではじめて足が土を踏んだ。 ここは尾瀬沼の端に近く、東に燧ケ岳を背負い、西南にかけては歩いてきた尾瀬ヶ原の茫々とした光景がはるか彼方まで続き、至仏山はまだらな白雪を残して立つ。その下は山の鼻だとうなずいた。ここまで3里の距離だという。 沼尻に着いたのが5時40分。 この時間に、次の2里を歩いて堂小屋まで行くのは得策ではないので、今夜はこの茅屋に泊まろうと荷物を降ろした。 |
<沼尻の小屋泊まり>小屋は会津桧枝岐(ひのえまた)の漁師(尾瀬開山というべき明治23年にここに小屋を建てた平野長蔵氏のことか:スキピオ注)が作ったもので3屋あった。中は狭いが小さな囲炉裏もあり、また煙の逃げ道もうまく作ってある。入口には板がかけてあり、床はなく、むしろを敷いて座る。小屋の前に小川が流れており、ここで食器類は洗い、洗顔もできる。 |
<神々しいほどの尾瀬の朝>9日、寒さが身にしみて4時半に起きてしまった。 |
<仙 境>![]() わたしたちはここから三国山を越えて栗山に出ようとしたが、採集した植物も重くなり、食料も減ってきたので、早く湯本に戻るために山越えして丸沼に下ることにした。 「だったら県道を南下しよう」と案内人は先に進み始めた。わたしたちは後ろから景色を楽しみながら尾瀬沼の湖畔を回った。すぐに小さな沢が沼に注いでいるところに出た。ここが両州の州境で「距桧枝岐四里三十四丁、距戸倉五里十丁」と標木に書いてある。 尾瀬沼を隔てて燧ケ岳を望むと、山は湖より生え出たように屹立している。 一跳びで頂上に飛び上がれるように見えるが、道はなく、ハイマツが縦横に延び至難である。かつて桧枝岐の村人が新しい道を開いて、そのとき堂小屋も設けたのだが、登る人も少なくそのまま道も廃れてしまった。 尾瀬の景観を日光にたとえると、燧ケ岳は男体山、尾瀬沼は中禅寺湖で、尾瀬ヶ原は赤沼ケ原に似ている。しかし、尾瀬ヶ原の広さは戦場ヶ原など到底及ばない。ほんとうに汚れのない自然を愛し、仙境に遊ぼうと思う人は、俗悪な箱根に遊んだり日光の人工美を見るよりは、尾瀬山中で原始的な生活を営むべきである。 |
<旅の終幕>10日、午前3時40分起床。川で洗面し、携帯する荷物の中に魚「ボヤ」を詰め込んだ。天気は幸いにも晴れわたっている。この日は湯本に帰れると思うと、一刻も早く出発したい気持ちがつのり5時40分出発。 道はまったくなく、ただネバ沢の川床を登った。 1里ほど上ると谷は狭くなり谷が二つに分かれている。右手を上るが急な断崖で、胸を突くような岩をよじ登り、ゼーゼーハーハーいいながら10余丁を上りきった。 左に折れてアスナロの密林を進んだが、あいかわらずの道なき道。加えて絶壁、急坂が連続したが、ついに峰に出た。時刻は9時。 ・・・・・ やっと小さな沢を見つけそこを下る。小屋を見つけたので走ってたどり着くと数名の山師がいた。しばらく休ませてもらい、かれらが開いた新道を下った。道がはっきりしているので案内人より先に急いで、湯沢の谷を渡ると丸沼の畔に出た。 湖畔に小屋が建っている。昔、土地の人がここに浴場を作り、湯沢の湯を引いたのだが今は荒廃して残念ながら見るかげもない。 時に12時10分。小休止して清水でのどの渇きを潤し、勇気を奮い起こし、笈沼方面に上り始めた。 3時15分、笈沼湖畔に到着。空腹がはなはだしい。ここで同行の早川君は疲労困憊してもう歩くことができない。 わたしは一杯の清水で力をつけて1時間半後に金精峠の頂上に達し五日ぶりに日光の地を踏んだ。さらに1時間をかけて湯本に帰り着いた。 再び俗界の人となったが、温泉に入り米の飯を食べ、やっと人間に戻ることができた。 その夜からまたも雨が降り始めた。毎日囲炉裏の火を抱いて植物の標本を干し、温泉で温まった。聞くところによるとわたしたちが出発した翌日から雨が続き、帰還した日の午後から晴れたという。まさに天佑を得て、尾瀬の旅行を終えることができた。 湯本で数日雨に閉じ込められたが、豪雨を冒して日光に下り東京にもどった。 |
Copyright ©2003-6 Skipio all rights reserved