22章 ニセコ・岩内
９６．３．２４
毎日少しずつ着実に冬から春へ向かっているそんな春まだき、弥次さんに誘われニセコを訪問した。雪はいまだニセコの山野を覆いつくし、一面の銀世界なのだが、太陽はきらきらと輝き春がすぐそこに来ていることを実感する。
この日は有島武郎記念館（有島旧邸はこちらでリンク）を訪ね、その人となりと作品に触れた。雪の後方羊蹄山を目の前にして、陽光のまぶしさに目がくらんだ。
＜ブルジョア有島武郎＞
有島は1878年（明治11年）東京・小石川で生まれ学習院中等科を経て札幌へ。札幌農学校卒業後アメリカに4年間留学。 「カインの末裔」「或る女」などの作品で白樺派を代表する小説家として、またニセコ町に所有する農場を解放させた思想家として活躍したほか、演劇界、美術界にも大きな文化的足跡を残した。 父は薩摩隼人の後裔で大蔵省の関税局少書記官、母は維新の戦乱に徳川幕府を助けた南部藩士の出自という名門の家系に育った、俗にいうお坊ちゃんである。有島生馬、里見弴は実弟。 |
有島武郎に関しては軽井沢で「婦人公論」の編集者・波多野秋子と心中した作家、という漠然とした知識しかなかったが、２・３の著作は読んでいたのでそれなりの興味を持っていた。というよりわたしはこういう情報が大好きなのである。作家がどういう背景や環境の下でどんな作品を書いたのかは、自分たちが生きていくための道標になることもあるし、何らかの示唆を与えてくれると思うからである。
＜農地解放＞
かれはブルジョアジーの子弟として世に生を受けた。
このニセコの大地に父は有島農場という大農場を所有していた。
半年は雪に覆われる厳しい風土のなかで働く小作人の当時の苦労は並大抵ではない。そんな小作の苦労に接して、純粋な武郎は迷い、悩み、このままではいけないと思い始める。生まれながらの差別があっていいものかと思う純粋な思想はやがて神の元に平等なキリスト教思想に傾いていく。また共産主義にも大きく影響を受けるようになる。
やがて苦悩と軋轢の末の大正11年７月18日、農場内の弥照神社に小作人一同を集め、かれは農場解放を宣言した。夏の暑い盛りであった。
歴然とした身分差別が当たり前であったこの時代、自己の持つ農地を解放したこと自体が歴史的事件であった。普通では考えられないと思うが、それだけかれは純粋であったのか。今風に言葉を変えて「あまさ」と批判する人がいるかもしれないが、かれは決断し実行した。当然他の地主の反発を招くことになるのだが・・・。
＜４５歳情死、波乱の生涯＞
何一つ不自由のない大蔵官僚の家庭に育ち、学習院では大正天皇の学友として大事にされた有島の生涯は洋々としていた。しかしその幼年時代からすでに、生来の理想主義的な生真面目さから家庭や育ちに反発する傾向があったようだ。
そして青年期を迎える。
多情多感なこの時期、純粋培養の有島はいろいろな色に染まっていく。
札幌農学校での内村鑑三との出会いとキリスト教への傾倒、アメリカ留学そしてキリスト教に対する失望と挫折、社会主義への傾斜は（死の前年になるが）上記の農地解放を決断させる。
1910年（明治43年）33歳で、武者小路実篤、志賀直哉らとともに雑誌「白樺」の創刊に参加する。、「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」などの小説、「惜みなく愛は奪ふ」などの評論を次々に発表して人気作家となるが、私生活でも、その人道主義・理想主義を実践した。
純粋であったことと、人の生き方をまじめに考え続けたことが、ある女性との運命的な出会いを契機に彼女との心中を惹起したとはいえまいか？美貌と才媛を備えた編集者・波多野秋子は有夫の身。当時は姦通罪が歴然と存在した時代で、二人の恋愛はまさに人生をかけた恋となった。
人の生き死には何がきっかけになるかわからない。
作家・渡辺淳一氏は有島よりの「別れの手紙」が引き金になったと分析した。別れることを決意した瞬間に、すべてのものが空になり、強い感情が再燃する。その手紙の2ヵ月後に二人は軽井沢で命を絶った・・・。
さて渡辺淳一氏が書いたベストセラー「失楽園」はイギリス文学の同名の大長篇叙事詩からモチーフをとっているかと思うが（映画では阿部定事件）、エピローグの場面、久木と凛子の死の情景は「有島武郎と波多野秋子」をイメージしていたのではないだろうか？
＜プロレタリア木田金次郎＞
「生まれ出づる悩み」の主人公と作品の背景のこと。
文豪有島の心をつかんだ“漁師の絵描き”木田金次郎がこの物語のモデル。岩内の漁師の次男に生まれた木田金次郎は実在の画家である。有島に教えを請い、有島から大きな影響を受けた。
「山ハ絵具ヲドッシリツケテ山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヤウニ描イテ見タイモノダト思ッテイマス」
名作「生まれ出づる悩み」の主人公が有島へ出した手紙の一節である。
岩礁の多い岩内の荒海に乗り出し、生と死が隣りあわせのなかで、生活のための漁をする、そんな青春を駆け抜けてきた金次郎。
塩を舐めるほど赤貧の漁師の家庭には、絵の具や画用紙を買う金もない。兄弟からは「なんのために絵なんか描いているのだ！」「猟師に絵は必要ない！」と叱責を受ける。
冒頭金次郎は札幌に有島を訪ね、画家としての可能性の疑念をぶつける。最初の出会いのシーンは、これは実際の出会いと思わせるほどリアルに描写されている。有島は金次郎の絵に鋭敏な色感と重い憂鬱を見て、素直に感動し、やさしくかれを受け止め示唆する。
10年後互いに悩みを持つ二人がニセコで出会う。岩内では絵が描けないと感じていた金次郎は、有島に東京での就職を相談する。
「東京に出ることより、土地の自然と人とを忠実に熱心にお眺めなさるがいいに決まっています。」と諭す有島。この言葉で「世界が急に明るくなった」木田金次郎は、岩内にとどまる決心をしたのである。
金次郎は忠実にこれに従った。大正１２年有島の自殺を契機に、３０歳の木田は漁師をやめて画業に専心する。生涯岩内を離れず、一度も公募展に出品せず、画壇の動きにも心を寄せなかった。以来４０年、最晩年に至るまで師・有島の期待にこたえようとして、赤貧のなかで苦闘し精進を重ねた木田の気迫と決意は尋常ではない。「恩に報いる道はひたすらいい絵を描くことだ」というのが木田の言葉だったという。
木田金次郎、昭和３７年冬、一生を芸術に託して郷里の土に返る。
有島との出会いによって、「画家木田金次郎」は見出だされた。大きな2つの魂の出会いは、木田のその作品のなかに昇華され、今も脈々と呼吸している。
その「木田金次郎美術館」は岩内駅構内にあった。
岩内は画家の歴史を持つ港町。
現代の岩内には漁師町らしく寿司屋がやたらと目立つ。目に入る店は寿司屋ばかり。当時とは比べようもない豊かさを町中で感じた。
＜有島が書いたニセコの冬の情景＞
「カインの末裔」より＜北海道の冬は空まで迫っていた。蝦夷富士といわれるマツカリヌプリの麓に続く胆振（いぶり）の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せるうねりのようにあとからあとから吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマツカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に刃向かいながら黙ったまま突っ立っていた。昆布岳の斜面に小さく集まった雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。草原の上には一本の樹木も生えていなかった。＞
＜続く＞
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