江戸東京たてもの園−2
千人同心と豪農

 ここでは茅葺の家屋3件を取り上げてみました。それぞれ独自の歴史的背景をもっています。白川郷や五箇山の合掌造りとは趣が違いますがなかなかいいものです。

その1 八王子千人同心組頭の家



現代の八王子駅

「八王子千人同心」という仰々しい名前は?と問えば、八王子とその周辺に居住していた郷士集団、と答えがやってきます。もともと甲斐武田氏の小人頭に率いられた同心衆が武田氏の滅亡後に徳川家に仕えたのが始まりで、家康が秀吉の命令で江戸に下向、着任した際に八王子に配備されたのです。

その構成は10人の千人頭の元に100人の組頭が、その下に平同心800人、持添抱同心100人というもので、合計するとほぼ千人の武士団となりました。成立の過程で多摩の農民・郷士から徴兵が行なわれ、またほとんどのメンバーが天然理心流を会得していたということ、徳川家に恩を感じ忠誠を尽くしたことなど、「新撰組」と共通することの多い集団でした。

かれらは新撰組のように華々しく歴史を飾ることはありませんでしたが、騎馬や武術に優れ、武士としての誇りも高く、また学問的にも傑出した人も少なくなかったといいます。幕府直属の郷士として俸給も与えられていましたが、実際には半士半農という特殊な地位に置かれていました。

幕末の第二次長州征伐に出兵し、その後京都、広島、小倉を転戦しましたが、最終的に水戸学を信奉した徳川慶喜の、大政奉還や天皇への恭順にしたがって、組織を解体しました。

雌伏300年による長州・薩摩の怨念は激しく、明治を迎えた千人同心も厳しい選択を迫られます。



半士半農の同心の家
日常生活は清廉で質素

<武田と井伊の赤備え>

話は少し横道にそれます。

甲斐武田氏の赤い甲冑の武士団に言及しましたが、武田の主流は滅亡後、家康の指示によって、それ以前に敗れて徳川の家臣となっていた若き井伊直政に組み入れられました。歴史好きな方ならみなさんご存知のように、武田軍団の勇猛果敢さは戦国の世に異彩を放っていました。

その勇者たちを取り込んだ直正は、以後「小牧長久手の戦い」を手始めに豊臣家との抗争に勝利を収めるまで、「井伊の赤備え」「井伊の赤鬼」として群を抜く手柄をたてることになったのです。井伊家はその手柄により、徳川時代を通じ、東海道の要衝であり都に近い近江・彦根を治めることになりました。(家康の江戸入りから8年間は上州・箕輪城主)

そして200数十年後の幕末、末裔の井伊直弼が水戸浪士の凶刃に倒れるという桜田門外の変に繋がっていくのです。

余談ですがその井伊家は、もともと遠州浜松の山間部・引佐町井伊谷(いいのや=旧引佐町が浜松市と合併し現在は浜松市)から出生しています。龍潭(りょうたん)寺という古刹が、井伊直弼の先祖に当たる井伊家の菩提寺になります。実はわたしの竹馬の友、姓を「井谷」といいましたが、その家系が井伊谷の出身で、小学校に通っていたころ、かれの母親から赤備え軍団の獅子奮迅の活躍を幾度となく聞かされました。

<屯田兵>

さてもうひとつ千人同心を語る逸話があります。

1800(寛政12)年春、甲州八王子からはるか蝦夷地を目指して旅立つ100人の男たちがいました。千人同心の千人頭原半左衛門、弟新介とその子弟たちでした。彼らは自ら願い出て蝦夷地へ渡ることを決意し、勇払(現在の苫小牧)、白糖へと向かい、血のにじむような開拓事業を始めたのです。しかし厳しい自然条件のなか、想像をはるかに越える寒気との闘いで同心たちは次々と命を落としていきます。結果、開墾地は入植後4年で放棄されてしまいました。

旭川の屯田兵の兵舎を語る小文があります。
 「この兵舎は小屋ともいいにくいほどに小さい。薄板一枚の外壁で、窓はガラスなしの単なるすきま・・・を見ていると、この寒冷地でほんとうにこの小屋に生きた人間が住んでいたのかとうたがわれてくるほどである。」

 甲斐武田武士の魂を引き継いで極寒の北海道に渡った八王子武士団も、終には倒れ朽ちたわけですが、その精神には拍手を送りたいものです。

その2 野崎の大百姓・吉野家



専門家の目で見ても格式はかなり高いようです

別の百姓家の話です。この家屋は昭和36年に、三鷹市野崎(武蔵国多摩郡野崎村=明治初期は神奈川県)から小金井公園に移築されてきました。

現在の三鷹市の「三鷹」の文字は、徳川の世に御三家の鷹狩場があったことから名づけられていますが、野崎のあたりは江戸期、尾張藩のテリトリーであったようです。
 吉野家は野崎の名主を務めてきましたが、明治になって自由民権運動の士・吉野泰三を生んでいます。
 新撰組の近藤道場で天然理心流を学んだ泰三は医者であり、書家・文人でもあり、また政治家であって、当時神奈川県に属していた多摩地区を東京府に移管させています。



座敷から見た庭の眺めが絵になっていました

先般自転車でこの野崎のあたりを通り過ぎようとしたのですが、森に囲まれた広大なお屋敷を見つけました。写真に収め、ふと表札を確認すると「吉野」の文字が明確に読み取れました。(間違いなくこの家だ!)と密かにその偶然に満足したものです。

同時に、固定資産税がたいへんだろうに、などとろくでもない考えをめぐらせてしまいました。

吉野邸

外からではお屋敷が見えません

その3 豪農・天明家



長屋門の向こうに主屋が見えます

天明家は現在の大田区鵜の木(田園調布の近く)で村役人の年寄り役を務めたという旧家です。江戸以前の農家といえば、高い租税に苦しむ水のみ百姓のことがまず頭に浮かびますが、この家はまったくそれにあてはまりません。

共産主義ではありませんから、封建制度の下でも努力した家は富を増やし立派な家系を作ったのです。

豪農ということばがありますが、それもお上からいただいた財産ではなく、最初は小さいところから始めて、少しずつ蓄積した努力の結果ととらえるべきでしょう。爪に火をともして働いて、お金が貯まったら田畑を買い足し、商売も手がけ、繁盛するようになったら家を建て替えて蔵を造り、子どもにきちんとした躾を施し、そうやって一族の繁栄の基礎を作る・・・というような豪農の系譜があるものと信じています。それは昔も今も同じこと。

才覚があって努力するものに富は蓄積します。多少の運・不運はありますけれど・・・。

枯山水の庭園

たてもの園に移築された天明家の建物は、庭園を含む主屋と長屋門、それに飼葉小屋ですが、まず入場門ともいえる長屋門に驚かされます。下男下女といった使用人たちが住んでいたのでしょう。

そして広い庭があります。この庭で収穫した作物を広げて天日で干したり、手間のかかるさまざまな加工作業をしたりと、有益なスペースです。また農家の子どもたちにしてみたら、かっこうの遊び場であったに違いありません。

わたしも幼時期、父親の実家の広い庭で飛び回ったことを思い出します。

主屋は茅葺の寄棟造(あるいは入母屋)ですが、その正面に「千鳥破風(屋根の斜面の中程に装飾あるいは換気・採光のために設ける三角形の破風)」が乗っています。これ一つで風格がだいぶ違います。



静かなる風格

<茅葺と和の生活文化>

座敷に上がりましたが、ゆったりとした空間が広がります。

窓を開ければ風が通り、夏でも冷房は要らないでしょう。輻射熱に悩まされる現代の鉄筋コンクリートのマンションとは大違いです。

囲炉裏に火が入って、番をしているボランティアの方が解説をしてくれました。煙によって屋根に乗っている萱(藁)を燻(いぶ)すことで、家の寿命が長くなるということです。そのせいもあってか、柱はみんな煤茶けています。

戦後のアメリカ生活文化の乱入は、こうした茅葺の家文化を瞬く間に駆逐してしまいました。木から鉄筋へ。暗い家ではない明るい家。井戸水による冷蔵ではなく、電気冷蔵庫による冷蔵。囲炉裏や火鉢の熱ではなくスチーム暖房。

ただ、賢い日本人は、そのまま取り入れることの愚を悟り、選別して取り込むようになりました。伝統的で利用し甲斐のある固有の文化はそのまま残し、洋風のいいところは取り入れるという和洋折衷の生活文化を選び始めています。

網代文様の障子の優雅さを見てください。近頃トンと見られなくなりましたが、品のある和の文化を、天明家の中でたくさん見つけることができました。

古い時代のことを思い描いて、あえて2枚の写真は色を消してしまいました。



障子の文様に注目



落着けます

<続く>


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