高尾山如月の雪
2008年2月11日
(明治の森国定公園)




山頂から富士山を眺望

大寒を過ぎると寒さは相変わらずだが、晴天の午前中は風が治まり、天候は安定する。

この日は雪が東京を襲った翌々日で、雪道の凍結が気になったが、高尾山行きを決行した。あえて雪景色を楽しもうという思いもあった。

7時前に家を出て八王子に着くと、中央本線小淵沢行きの電車がホームに滑り込んできた。それなりの年輪を刻んだ年配の方々が、グループを組んでこの電車にあわただしく乗り移っていった。概して女性組が多く、表情は一様に、遠足に行く小学生のように喜色満面である。重そうなリュックから察すると、近場の山においても安全第一を心がけているのだろう。ましてや雪の残る山であり万全な準備と装備を心がけておられるように感ぜられた。

それにしても山登りを目指す客の多さに驚かされた。

わたしたちは京王線で高尾山口に降り立ち、始発のケーブルに駆け込んだ。

この日の当初の目標は、高尾山から城山、景信山、明王峠を経由して陣場山まで尾根筋を縦走しようというものである。7時間を歩ききるという、心の準備をしたつもりだった。だから早朝の出発にもなった。

さて、軟弱なる意思によるトレックの結末はいかがなるのでしょうか・・・?

高尾山のあれこれも交え、順を追ってご披露したく!

ケーブル終点の高見から北の方角をのぞくと、山中にトンネルを穿った自動車道の幾何学模様が望める。昨年7月、県央自動車道が中央道とつながった、その八王子ジャンクションだ。これによって中央道と関越自動車道がつながり、国道16号の渋滞はだいぶ緩和されたのではなかろうか。あとは、高速道路の値下げを願うだけだ。高い料金が障害となって利用されないのなら、まさに税金の無駄遣いになってしまう。


<高尾山薬王院の成立>

参道の両側は純白の雪で、真言宗・高尾山薬王院の神聖さはイヤ増す。



表参道をユックリと歩き出した

  

(左:男坂・女坂の分岐 右:男坂の階段から下を見下ろす)

薬王院は744年(天平時代)に、高僧・行基(668749=菩薩の称号)によって開山された。命名は創建当初、薬師如来を本尊として安置したことによる。

行基や忍性など当時の僧侶はただ経文を唱えるだけではなく、現実的な手法で民衆を救済した。川が氾濫すれば堤防を造成し、橋も架ける。飲み水に不足していれば井戸も掘る。それだけ勉強し、諸事に精通し、また経験から得た科学的知識を豊富に持っていた。

もっとも多かったのは病気平癒の祈願だったことは誰にでも想像できる。高尾山は自然の薬草の宝庫である。薬師如来を本尊に据えることはもちろん、山域に植生する薬草を選別し、医師としてのコンサルティングのようなこともやったのではなかろうか。

  


<国家が保護した美しい自然>

599mとさほど高くはない高尾山だが、豊な自然に恵まれている。その理由は、もともと暖帯系の常緑広葉樹林と温帯系の落葉広葉樹林が混在し、植物の種類が多いこと。加えてあらゆる「殺生を厳しく戒める」など、宗教的に保護されたことなどによる。

また政治的にも小田原北条氏、徳川幕府、明治の御料林、戦後の国有林、最近では『明治の森国定公園』に指定されるなど、ずっとやさしい環境があった。

したがって現在私たちもその恩恵を享受できるという理屈だ。

花好き、自然愛好者にはありがたい。



高尾山の花として
すみれ系がもっとも多い
写真はタチツボスミレ




しかしわたしが思う人気No.1は
可憐、1cmほどに咲く
稚児ユリしかない
この花を求めて多くのご婦人方が山を訪れる
(4月末〜5月初)


<杉並木>

高尾山は「東海自然歩道」の出発点。東海道には松並木や杉並木が多いが、この薬王院参道にはずらりと続く立派な杉並木がある。

まっすぐに屹立する姿は「直ぐの木」の別称もあり、古くから神を祀る神聖な木とされてきた。

もっとも地域と寺社が密接に関係していた古代には、建築や修繕の材料として「おらが神社」にみんなで植えた、みんなの財産という意識が強かったのではなかろうか。

高尾山の美しい杉の古木は、たまにやってくる台風、とくに伊勢湾台風によって甚大な被害を受けた。その後多くの人々の寄進によって植樹され続け、立派な杉並木は回復した。表参道には苗木寄進者を示す木製の表札がずらりと並んでいた。
 (花粉症の皆さんには迷惑な話かもしれませんデスネ!)



どっしりとした風格のある四天王門

さて四天王門。ここで参拝者は最初の怖いチェックを受ける。

立派な重層入母屋造りの楼門のなかで、増長天、持国天、多聞天、広目天の四天王が恐ろしい形相で待ち受ける。

四天王の検閲を受けて階段を上がるとこんどは大天狗・小天狗が待っていた。



左から小天狗、大天狗

これでは小さな子供は泣き出して、とてもご本尊まで辿りつけそうにない。現代の大人たちは、幸いにして無神経であることによって、これらの関所をするりと通り抜けてしまう。かくあるわたしも同様に。

ところで、そんな軟弱な精神を鍛えたいという方々に吉報がある。滝に打たれて精神を修養しようという企画がそれ。
山中にある蛇瀧(じゃたき)と琵琶瀧(びわたき)の二瀧がその水行道場の場。やる気のある方は随時受け付けてくれる。水行(すいぎょう=瀧行)とは、行衣一衣をまとい、瀧に打たれ、無我のなかに己を見つめること。現代人にとって、あらぶるものに打たれたいという欲求は、マゾ的本能とあいまって、意外に多いのではないか。一度ご参加なされたらいかがでしょうか!

<天狗伝説>

天狗伝説の残る寺院は全国各所にある。

天狗の発祥はインドの迦楼羅(カルラ)とされている。わたしたちが一般的に知っているカルラは「ガルーダ」であり、インドではあまりにも有名なヴィシュヌ神の乗り物。胴体は人間、頭と嘴、翼、爪などは鷲。翼は赤く、巨大な身体は黄金色に輝くといわれ、あらゆる飛び方や、自分の体を小さくも大きくも自由にできる神鳥とされている。

カルラ(ガルーダ)は日本でも神格化され、天狗になった。

余談。高尾山には多くのムササビが生息し、そのムササビが天狗だという説がある。天狗が投げる「(石)つぶて」は、空から降ってくるムササビの糞。天狗が起こす「つむじ風」はムササビが近くを通ったときの風圧・・・天狗伝説を持つ寺院の多くにはムササビが生息するという。



南の展望が開けていた ガスがかかって見難いが
中央左は橋本のビル群、我が家から朝な夕なに眺める光景
中央右より奥に横浜ランドマークが見て取れた


<大本堂から飯縄権現堂へ>



薬王院大本堂



薬王院権現堂

権現堂は都指定有形文化財(建造物=昭和27年指定)。

拝殿・幣殿・本殿の三殿一体となる権現造り、江戸時代後期の代表的な社殿建築で、本殿には本尊「飯縄大権現」が安置されている。

戦後の昭和40年に大修理。また平成10年に大改修をおこなっている。

拝殿は入母屋造り。正面に第32世「隆玄貫首」揮毫の「飯縄大権現」の額が掲げられている。社殿全体にわたり彩色彫刻で装飾され、かの日光東照宮を連想させる。

(ブルーノ・タウトだったら、散々けなすだろうな・・・)と、不敬な思いが頭をよぎった。


<頂上へ>



ここまでの参道はきれいに雪が除かれていた。薬王院におつとめしている行者たちが早朝から雪払いをしてくれたのだろうと、感謝。

どれだけの人たちが境内で暮らしているのだろうかと単純な疑問が浮かんだ。

普段なら、不動堂を過ぎれば頂上まではすぐ近い。しかし先の山道に雪が残っていた。しかも早朝の冷気でギュッとが締まっている。できるだけ新雪の上を歩くように心がけたが、それでも滑る。その滑り具合で先に進むか否かを判断しようとしていたのだが、頂上にたどり着いた段階で、これ以上の前進を断念した。

一丁平方面に下っていく皆さんはアイゼンを装着されている。下り斜面では不可欠。滑って転んで怪我、ということになりたくない。

時計を眺めるとまだ午前9時。ゆっくりあるいてきたから、4〜50分はかかっただろうか。朝が早いと気持ちに余裕が出来る。

あとは山を下って蕎麦屋で少し飲んで、ということになったから、ここでゆっくりできる。

晴天のおかげで頂上からの展望はすばらしい。



観覧車が小さく見える

富士山が南西の方角、丹沢山塊の向こうにくっきりと浮かび上がっている。その左に蛭ヶ岳(1673m)、丹沢山(1567m)、大山(1257m)、大山三峰山(935m)がなだらかに左下がりの稜線を見せている。ちょうどその方向から、春と見間違うばかりの暖かい日差しがさしかけてきた。大気温はまだ冷たいが気持ちは温かだ。

  



なだらかな二等辺三角形が「大山」

「あそこに観覧車が見えるけど、どこ?」

「相模湖ピクニックランドでしょう」

北側の山肌には白いものが目立つが、元気な太陽が雪を溶かし始め、水蒸気は霞となって景観を茫洋とさせ始めた。

大学生の合コンらしいグループが富士の姿を眺めて驚きの「わー、すごい」 「キャー、きれい」などと喚声を上げている。

「そろそろ降りようか・・・」

今回は春の花には12ヶ月ほど早いが、春になれば小粒の花々が競って咲きはじめる。その時期に、今度こそ縦走しようとかたく心に決めて山を下った。

<完>


(番外)

  

下まで歩いて下って11時、栄茶屋の一番早い客となった


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