さあ小江戸歩きも仕舞を迎えた。
「祭り会館」は蔵造りの町並みの一角にあり、行って見て、その山車の豪華絢爛さに驚いた。この規模の町でこれほどに、と。
さすがに「小江戸」といわれるほどのことはある。江戸の祭文化の伝統が、開府300年の歴史を通して確実にこの地に根付いたものと思われる。
しかし、伝統を育て、継続するには元になる原資、すなわち豊かな経済がないとやっていけない。そこに「蔵の町」の本質があり、言葉を変えれば、周辺の産業地から商品が集まり、商業が栄えたということの証明に他ならないと思う。
そもそも「川越まつり」は、慶安元年(1648)城主の松平伊豆守信綱が、氷川神社に祭礼用具を寄進、祭礼を奨励し、同4年(1651)御輿が氏子の町を渡御したのがその原点とされている。したがって350年の歴史を持つ。
その後祭様式は大きく変化し、文化文政には「笠鉾形式の山車と踊り屋台」という(京都系の?)派手なものに変化していった。さらに勾欄に人形を乗せたりしながら、二重鉾の江戸天下祭様式に収斂されたようだ。
ここでちょっと寄り道して松平伊豆守信綱のこと。
わずか5歳で家光の小姓となり、「知恵伊豆」として活躍した信綱は、島原の乱(1637〜38)を有名な兵糧攻めで鎮圧した功績により、寛永16年(1639)川越藩6万石に加増転封された。このとき40歳。かれは家光・家綱の二代に渡り老中を務め政権の安定に貢献した。川越の時代はもっとも脂の乗った時代ではなかったか。寛文2年(1662)66歳にて病没。
会館の暗がりで。
舞台で囃子が実演されている最中に、華麗な山車の近くに立っていた、半被を召した老爺に山車のことで質問してみた。
江戸から明治への移行期に、神田祭や天王祭の山車は多く、地方に流失した。川越には該当する山車はないのかと思い、帰宅してから調べてみた。
昨年の「開府400年祭」(わたしも江戸城登城に参加したが)には、それら江戸天下祭の山車が里帰りして皇居周辺で大きな盛り上がりを見せた。熊谷の戸隠(地名と人形)、青梅の武内宿禰、鴨川の恵比寿、遠州横須賀の川中島や五条大橋に混じって、「川越の弁慶」もあった。
祭の夜の楽しみは、交差点での「曳っかわせ」にあるという。
「曳っかわせ」は、山車が四つ角などで他の町の山車と出会ったときに行われる。互いに囃子台が正面を向いて、自慢の囃子の競演を繰り広げる。勝ち負けはないが、提灯を手にした曳き方衆が乱舞する姿は、想像するだけでもクライマックスにふさわしいと思う。
その囃子は関東中心に流布した葛西囃子や神田囃子を継承し、王蔵流、芝金杉流、堤崎流に独自の改良を重ねてきた。横笛のリードで大太鼓、締太鼓に鉦(かね)を打ち囃し、仮面が舞うのは江戸祭の特徴。
これだけの文化を継承するには、熱狂的な祭狂いがたくさんいるだろうなというのが正直な感想で、「祭大好き人間」としては、(今年の10月には必ず来るぞ!)という思いを新たにしたのである。
明治11年全国で85番目に認可された「川越第八十五国立銀行」は
時代の変遷のなかで埼玉銀行に統一され、その後あさひ銀行に統合、
さらに現在はリソナ銀行と名を変え商業と観光の町の金融を支えている。
夏本番の川越の町に観光意欲の高まりを感じた。
この町は「小江戸」の別名が示すように「江戸文化」をたくさん継承している。
喜多院に残された徳川家光ゆかりの遺物、川越東照宮、川越城本丸の遺構、絢爛豪華な山車の数々、江戸の町屋の面影を残す蔵造りの家、江戸で大流行した焼き芋やうなぎの蒲焼などなど、それらがコンパクトに凝縮されていて、3時間もあれば一回りできる。
古い文化を観光資産として活用しようとする町は全国にたくさんある。倉敷も、高山も、会津も、小樽もその他の町も懸命な努力を積み重ねている。川越もしかり、街中に立派な店が数多く誕生している。
先行投資はたいへんだったろうと感じたが、ここは首都圏から近い。それだけに本格化すればより多くの観光客が訪れ、財布の紐が緩む。けっして少なくない観光収入が得られることはたしかだろう。
ひとつ、街中の車の混雑は観光気分を損ね、悪いイメージを残してしまう。この問題は市民の生活権とのかかわりから単純には解決できないだろうが、休日の歩行者天国はぜひ実施して欲しいなあ・・・。
<完>
Copyright ©2003-6 Skipio all rights reserved