良寛さんは越後・出雲崎で名主兼神官を務める橘屋山本家の長男として生まれた。故あって18歳の時、隣町の曹洞宗光照寺に入る。22歳のとき、備中玉島(岡山県倉敷市)の円通寺住職・国仙和尚が光照寺の参禅会に訪れたのを機会に、この国仙にしたがって出家得度し、正式の僧になった。以後11年余り玉島・円通寺で厳しい修行に耐え、良寛33歳の年に師・国仙から「印可の偈」(仏道の悟りを得た証明書)を受ける。翌年、国仙和尚が示寂されると、良寛さんは諸国行脚に出て、5年後に越後へ戻った。 |
良寛さんは財産、名誉、権力など人間を惑わすすべての想念を取り払い、隠遁僧として自然を愛した。悠々30年間を山中に独居し、妻をめとらず弟子もおかず、乞食行脚の生活を厳しく実践した。自分に対しては厳しく人に対しては常に寛大、最低級の庶民以下の生活に甘んじ、人としての恩愛の情を堅持していたから大人も子供も良寛さんに対しては、疑念を持たず安心して接していた。人間だけでなく草や木、動物にまでも同じ愛情をもって接した。 また良寛さんは、言葉を慎み、寡黙の人でもあった。僧でありながら、衆生に向かい説法を試みた形跡すらなく、その実践を通じて得た悟りも残っていない。もし言葉や書物として残っていたなら、後世の民衆に限りない救いを与えたに違いないと思う。 |
芭蕉の門人・各務支考(俳号東華坊)は1707年来杖「五月雨の 夕日や見せて 出雲崎」の句を詠み、支考の門人であった廬元坊(自らも芭蕉3世と自称する)も1747年この出雲崎町を訪れ、出雲崎の俳人と句会を開き「雪に波の 花やさそうて 出雲崎」の句を残している。 宝暦5年3月12日出雲崎の俳人・近青庵北溟によって、芭蕉、支考、廬元坊の来歴を後世に伝えようと、出雲崎町尼瀬の妙福寺境内に「俳諧伝燈塚」を建立した。四国松山ほどではないにしろ、現在でも多くの俳人達がこの土地を訪れたくさんの俳句が詠まれている。 |
江戸時代、出雲崎は天領で、佐渡金山からの幕府の御用金の陸揚げ場であった。佐渡でとれた御用金は、「御金船」という大型の船で出雲崎に運ばれ、舸子達によってはしけで荷を移しかえていたという。純金千貫匁入が二百箱、この小さな町に入ったというのであるから、大変なにぎわいであったろう。寛永年間までは、良寛の生家橘屋が、佐渡からの金銀の受け渡しなどを一手に行っていたという。 |
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