北海道命名の由来
かつて北海道は先住民・アイヌの住む蝦夷地と呼ばれていた。
それではいつ、どのように「北海道」の名前がつけられたのだろうか?
結論から先にいってしまえば、「松浦武四郎」という伊勢生まれの探険家が「北海道」の生みの親であるといってさしつかえないと思う。かれは明治政府から依頼されて提出した「北海道命名に関する意見書」の中で、6つの候補名をあげた。
北加伊(ほっかい)道、海北道、海島道、東北道、日高見道(ひたかみ)、千島道である。
結果的に北海道に納まるのだが、これはかれが提案した「北加伊道」の変形である。原住民のアイヌには文字がなく、「夷人(アイヌのこと)自ら呼んで加伊という」ことを重んじ、北のアイヌの国を意味する『北・加伊・道』を提言した。最終的に「加伊」は「海」に変化し決着した。
ここに「北海道」という呼び名が正式に決まり、明治2年(1869)8月15日太政官布告として告知された。北海道は松浦の雅号でもあった。

それまでの呼称は『蝦夷が島』『蝦夷地』などで、日本人ではない「異民族」の住む土地という扱いであった。そもそも蝦夷(エゾ)ということばは中華思想に基づく異民族蔑視の呼称で、古代中国で使用された東夷・西戎・北狄・南蛮(トウイ・セイジュウ・ホクテキ・ナンバン)と違わない。
これは稲作文化、すなわち年貢・税金としての米を価値基準に捉えていた江戸政権が米の獲れない北の台地を軽視していたことにほかならない。
ところが江戸末期、西欧各国が日本の沿岸に武装船で現れ、鎖国中の日本を棒切れでつつく態度をとるようになった。とくに北方においてはロシアが触手を伸ばし始め、その行為は狼のようなもの。あだ名の熊のように、すきあらば襲って食してしまおうという態度で暴れ始めた。
幕府はそれを見て慌てた。それまでのように鎖国を言い訳に、知らん振りをして寝転んでいるわけにはいかなくなった。満ち寄せる潮のように、時代は明らかに変わっていた。
函館に奉行所を設置し北の防備に充てた。
その後明治維新という内乱を経てやっと明治政府は正式に「北海道」の名称を定め、北海道が日本固有の領土であることを内外に宣言した。結果としてこのことが「近代・北海道」の出発点となった。
<松浦武四郎>
さて松浦武四郎氏のことにふれてみたい。かれは古代の『役の行者(えんのぎょうじゃ』を理想として、日本全国をくまなく旅した大旅行家であり、その旅の記録など多くの著作資料を残しており、後世の歴史研究に大きな貢献をしている。
文政元年(1818)、武四郎は三重県・津市と松阪市の間にある須川村小野江(現在の三雲町小野江)に生まれた。何の縁があってか、奇しくもこの年4月13日、実測による日本地図を完成させた伊能忠敬が亡くなった。
13歳から3年間、津の平松楽斎について儒学を学んだあと約10年に亘って全国各地を行脚する。山岳行を中心に名所旧跡を訪れるとともに、その地の学者や文人を訪ね幅広く研鑽し知識を集めた。この経験が後の武四郎の偉大な足跡の肥やしとなった。(
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そして弘化元年(1844)26歳のとき、蝦夷地の探検調査の旅に出発。安政5年(1858)までのおよそ14年間で、私人として3回、幕府の役人として3回、合計6回蝦夷地を訪れ広範な探検を行い、そのことを克明に記録した膨大な資料を残した。
そのことは道内各地の古文書や古資料として残り歴史愛好家の間で話題となり整理され、今に語り継がれている。
かれは蝦夷地の大自然(カムイウタリ)を誰よりも愛し、夢を膨らませ、現状を憂える自由人であった。
北海道に貢献した人物は数多く存在するが、北海道の生みの親といえるのは「松浦武四郎」をおいて、存在しないのではなかろうか。
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